料理長の食材研究

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No.41「元宵節の風俗」で香港の元宵節について書きましたが、今回の広東旅行も最終日が元宵節でしたので、今回は広州の元宵節について書いてみようと思います。新年の満月を祝うという風雅な習慣は廃れてしまったのではないかと以前書きましたが、さにあらず、広州では元宵節を盛大に祝っていました。というのも元宵節は春節の休日の最終日、または日本でいう仕事始めという意味合いがあるため、商店ではこの日に獅子舞を仕立ててにぎやかに商売繁盛の縁起担ぎをする訳です。また、人が集る広場などにはランタンにナゾナゾが書かれている札が吊るしてあり、これに正解すると景品が当たるというので人々が争ってその札を集めていたのも印象的です。これも宣伝、人寄せ、商売の一環で、月を愛でるという風雅な風習とは少しばかり違うのですが、何はともあれ元宵節が健在だったというだけでも嬉しくなってしまいます。

ちなみに食材商店の店先にはミカン、セロリ、葱、レタス、大蒜といった野菜を束ねたものに赤い祝儀袋を飾り、これが軒から吊るされているのが印象的でした。なんでも獅子舞が来ると飾ってある祝儀袋をわたすそうです。郊外の農村にも家の門先に似たような飾りが吊るしてありましたが、こちらはミカンと大蒜ぐらいで貧弱なのに対し、さすがは広州の食材商店、野菜の種類も豊富で華やかです。日本でも節分を迎えると柊に鰯の頭を刺したものを玄関の外に飾って邪気払いにしますが、おそらくこれらの野菜にも何か意味があるのだろうと聞いてみると、ミカンは中国語で「桔子」と書くので「大吉」を意味し、セロリは「芹菜」と書くので「芹」と「勤」の語呂合わせで「勤勉」、葱は「葱」と「聡」の語呂合わせで「聡明」、レタスは「生菜」と書くので「生意好」(商売繁盛)、ニンニクは「大蒜」と「打算」の語呂合わせで(計算高い)と言うことだそうです。「勤勉」で「聡明」「計算高」ければ「商売繁盛」間違いなし、今年も「大吉」と言ったところでしょうか。いかにも商店に飾りそうな縁起物です。

その晩は残念ながら雨が降り、満月を祝う事ができませんでしたが、その代わりに元宵節につきものの胡麻団子を食べて広州最後の夜を楽しみました。その胡麻汁粉の甘く滑らかなこと、そういえば商店街で昼間見かけたお兄さんが、物干し竿かと思うほどやたらに長い擂りこ木で胡麻を熱心に磨っている姿を思い出しました。あまり売れているようには見えませんでしたが、一生懸命で楽しそうな仕事振りにこちらも思わず笑みがこぼれます。今年も一年よい歳であるように願うばかりです。

今年の3月、研修を兼ねて調理場全員で広東省に行きましたが、そこで食べた風変わりな卵料理「炖禾虫」をご紹介しましょう。「禾虫」とは日本では釣り餌となるゴカイのことで、このゴカイと色々な副材料を卵に混ぜ、これを陶器の器に入れて一度蒸した後にオーブンなどに入れて焼いた料理です。ゲテモノ食いで有名な広東料理ですから、日本人が絶対に食べないようなものが料理にされるのですが、「炖禾虫」はその究極の一品と言ってよいかもしれません。この「炖禾虫」、料理書にはよく出てくる料理なので以前から名前と作り方は知っていましたが食べる機会がなく、今回初めて食べてみたわけです。その第一印象は?ゴカイと言われなければいたって普通の卵料理で美味しいものでした。また想像するよりもゴカイそのものはごくごく小さなものなので見た目にも解りにくく、椎茸の千切りが入っていると言われればそれで通ってしまうことでしょう。ただ、目を凝らすとやはり細かな足がたくさん付いているので、まぎれもなくゴカイである事が解ります。現地の人が言うにはゴカイの干したもので出し汁を取ると美味しいスープになるとか。日本人には理解できませんが、見た目の悪いゴカイも味の点では優れた食材なのでしょう。

ゴカイの話で気持ち悪くなった方もいるかも知れませんが、気持ち悪いついでに、料理書にはゴカイのおもしろい砂ぬき方法が書かれているのでこれを紹介しておきましょう。生きたゴカイには砂などがたくさん付いているため、先ずこれを落とさなければなりません。その方法は水に塩を入れて塩水を作り、この中にゴカイを入れて砂が下に沈めば、ここに荒縄を垂らすとゴカイが縄に付いて来るので、引き上げて水で洗うというものです。想像したたけで不気味ですが、美味しい「炖禾虫」を作るには欠かせない一手間で、原始的かつ合理的な方法とも言えます。広東に行かれた際は是非この風変わりで美味しい卵料理「炖禾虫」をご賞味あれ!

「烘」とは鉄板に材料を載せて弱火でじっくり焼くという意味の調理用語で、主に点心で使用される技法です。例えばホットケーキの焼き方を連想していただければ解りやすいと思いますが、料理にはほとんど用いられません。「韮菜烘蛋」という卵料理はこの「烘」の技法が使用される数少ない料理の1つです。具体的な作り方は、溶いた卵にスープを加え、ここに細かく刻んだ韮と水溶き片栗を入れ、鍋で半熟状態まで加熱した後、上下を反転させて弱火でじっくり焼いて火を通します。表面が焦げないように火はできるだけ弱くして動かさないで焼くと、卵はスフレのように盛り上がって、表面はカリカリした歯ざわり、中は滑らかで柔らかく、しかも焼けた卵の香りや韮の芳ばしさが食欲をそそり、ご飯のおかずにもってこいの料理です。材料を鍋の中で滑らせながら両面を煎り焼く技法は「煎」と表現されますが、この料理は動かさずにじっくり焼くので「烘」と言われる訳です。

私が修行していた六本木四川飯店ではランチによく「韮菜烘蛋」を出しており、私もこの料理で鍋の操作の修行を積みました。一見簡単そうに見えるのですが、卵にスープと水溶き片栗を加えるので卵がまとまりにくく、また鍋にこびりついて非常に難しいものです。また焼きたてはスフレのように膨れているのですが、これを切って皿に盛るとすぐにペシャンコになってしまい何とも残念なことです。ただし味は中国料理の卵料理の中でも一二を争うと言っても過言ではありません。スープと水溶き片栗が入っているので出し巻き卵をもっと滑らかにした味わいがあり、しかも表面の芳ばしさは出し巻き卵にはない魅力です。

さて「韮菜烘蛋」の生地を特性の鉄鍋の中で焼き、完全にスフレ状態にして仕上げた料理が河南料理の「鉄鍋蛋」です。この料理は上下が大きなプリン型の特殊な鉄鍋を用い、下鍋を火に掛けて熱した中に卵生地を加えて半熟状に焼いた後、同じような形をしたプリン型状の焼いた鉄蓋をかぶせ、上下から加熱するというもので、オーブンを使用せずにスフレを作る特殊な技法で作られます。2000年に出版した『中国料理技術体系烹調法』の中でどうしてもこの料理の技法を紹介したいと思い、前年に北京の河南飯荘で料理写真を撮ったのですが、1982年に出版された『中国名菜集錦』にもあるように、特殊な鍋を必要とするこの技法は既に行なわれなくなっており、撮影ではわざわざこの特殊な鉄鍋を作って、この古い技法を再現したのでした。

現在の「鉄鍋蛋」は名前こそ「鉄鍋蛋」なのですが、陶器の壷に卵生地を入れてオーブンで焼く、西洋料理で一般的なスフレに変化してしまいました。味は変わらないと思うのですが、なんとも惜しいかぎりです。

現在中国語では卵を「蛋」と書きます。日本語でもタンパク質は「蛋白質」と書きますから「蛋」に卵の意味合いがあるのですが、日本では一般的でありません。漢和辞典で調べてみると①鳥の卵 ②中国南方の水上に住む異種族 とあり、白川静氏の『字統』には「南方の異族で、蛋家、蛋戸とよばれ、陸居を許されず、舟を家として漁に従い、賎民とされた。よく水に潜って蚌珠(真珠)をとるので、わが国でもそのような海人をあまとよび、蛋の字を充てた」と説明されており、「蛋」とはもともと部族名であったことが解ります。これがどうして卵のことになるのかはよく解りませんが、明代の字書『字彙補』に「俗に鳥卵を呼びて蛋と為す」とあることから、「蛋」が卵を表すようになったのは明代以降のことのようです。料理書では明代までは「蛋」と書かれ、清朝の『隨園食単』や『養小録』あたりから「蛋」とされるようになりました。清朝以来今日まで「蛋」は卵なのですが、料理名には「蛋」という漢字を使用せず、他の言葉であらわす事が多いようです。例えば「溜黄菜」は煎り卵の餡かけ、「炒木犀肉」は肉と卵の炒め物、卵が黄色いことから「黄菜」や「木犀」(金木犀の花)と呼ばれるわけです。

人を罵倒する言葉に「王八蛋」「忘八蛋」(発音は同じ)というのがあるそうです。これは五代時代、無頼をほしいままにして悪行のかぎりを尽くした王建という人物を人々が「八徳」を忘れた王氏という意味で「王八」と呼んだことに由来します。またメスのスッポン(一説に亀)は蛇と交わるのを許して卵を産むと信じられていたことから、「忘八蛋」つまり「人としての八徳を忘れ他の男と交わって生んだ子供」または「妻を他人に寝取られた者」という意味になり、他人を侮辱する強烈な悪言とされました。このような言葉があるために料理名に「蛋」を付けることを嫌う訳です。

また卵白を使用する場合は白い蓮の花を意味する「芙蓉」と書かれます。蓮の花は一般に薄紅色だろうと思うのですが、仏教では極楽浄土に咲く清浄な花とされるので白が蓮の花にふさわしいと言う事になるのでしょうか。「芙蓉燕窩湯」は卵白にスープを混ぜ合わせたものを碗に注いで蒸し固めた後、この上にツバメの巣を載せてスープを注いだ料理です。中でも「芙蓉鶏片」は最も凝った料理として知られています。作り方は先ず鶏肉を泥状のミンチにし、ここに卵白、スープなどを加えて溶き延ばしたものを熱した油の中に流し入れ、固まって浮かんできたものをすくい取ってお湯に放って油ぬきし、味を加えた少量のスープの中に入れ、水溶き片栗を加えてトロミを付けて仕上げます。「鶏片」(鶏肉の薄切り)と書いてありますが実は卵白で作られたもので、口当たりは溶けるような柔らかさで滑らか、白い蓮の花のように上品な料理です。

No.55寒食節と杏仁豆腐

冬至から105日、あるいは106日目、旧暦の3月5日を「寒食節」といい、3日間火を使って煮炊きすることを禁じる風習がありました。「寒食節」は春秋時代の晋国の忠臣、介子推が焼け死んだ日と言われ、彼の死を悼む行事として火を禁ずるのだと語り継がれています。しかし史書に介子推が焚死した紀録がないことから、民俗学者は禁火という風習を火星や火に対する信仰と関連付け、火星が夜空に出現する3月に新しい火を灯して生命の蘇りを祝い、それに先立つ2月に火を断って火星の出現を待つ宗教的な行事が基となっているのだろうと考えています。ただ、介子推の物語があまりにも悲劇的で人々の心を打ったため、「寒食節」は介子推の死を悼む日とされてきました。介子推の物語は次のようなものです。

春秋時代、晋国に重耳という名の王子がおりましたが、国王の死後、兄弟が王位に就いて重耳を殺そうとしたため、彼は国外に逃れて流浪の身となりました。そんな流浪時代に献身的に重耳を支えたのが介子推です。彼のおかげで重耳は命を長らえて秦国に身を寄せたのでしたが、やがて秦王の協力を得て故国に戻り、重耳は晋の国王、文公として即位します。文公は重臣たちに爵位を与えてその恩に報いますが介子推には何の恩賞もなく、悲観した介子推は世を捨てて山にこもってしまいました。それからしばらくしてこの事を伝え聞いた文公は爵位を与えて山を下りるように説得しますが彼は聞き入れません。そんな中である臣下が「山に火を放てばきっと下りて来るでしょう」と進言したため、それに従って山に火を放ちましたが介子推はとうとう下りて来ることはありませんでした。3日後に山を探すと、黒焦げになった柳の大木の傍らで介子推とその母が抱き合って焼け死んでいるのを発見し、文公は自らの愚かさを嘆き彼を悼んで二度と彼の恩を忘れまいと誓ったそうです。それ以後、介子推の命日には国中で禁火を行い、彼を追悼したのが「寒食節」の始まりだということです。

さて、「寒食節」の禁火の風習もいつしか途絶えてしまい、今では「寒食節」という名称すら忘れ去られていますが、『荊楚歳時記』を丹念に読むと古い風習の中に意外な発見をすることがあります。同書の「寒食」の条には「今人、大麦粥をつくり、杏仁をくだきて酪をつくり、飴を引きて之にそそぐ」とあって「寒食節」に「杏仁酪」を食べていた事を伝えています。「杏仁酪」の「酪」はヨーグルトの事で、「杏仁酪」とは杏仁で作ったヨーグルト状の食品、つまり今日の「杏仁豆腐」の原型と思われます。実際の作り方は『斉民要術』に載っており、アンズの種を臼で挽いて絹で漉した後、麦を加えて弱火で煮たものを器に流して冷やし固めるという方法で作っています。今では寒天やゼラチンを加えて作るのですが、昔は麦の澱粉で固めていた訳です。一年中食べられていて季節感の無い「杏仁豆腐」も、実は春の歳時食であったいう発見は私にとってこの春一番のうれしい収穫でした。

No.56清明節と画蛋

「清明節」は春分から数えて15日目を言い、二十四節気の1つとして知られています。中国ではこの日に墓参りをし、春の野山を散策する「踏青」を行い、ヨモギを摘んで日本の草団子と同じ「青団」を食べて春を満喫するのが古くからの風習です。キリスト教を信仰する国々では、春分後の満月に最も近い日曜日にキリストの復活を祝うイースターの行事を行いますが、「清明節」とイースターはほぼ同じ日と言ってよいでしょう。私の小学校はミッションスクールだったので、イースターになると赤い色粉で染めたイースターエッグが必ず給食に出されて、皆でワイワイ騒ぎながらその赤い殻を剥くのが楽しかった記憶があります。今にして思うとなぜ色の付いた卵がそんなに楽しかったのか不思議ですが、箱根大湧谷みやげの温泉卵も黒く色付いた卵で、これを食べると何年寿命が伸びるなどと言われますから、色の付いた特別な卵に私たちは生命の誕生という寓意を知らず知らずの内に感じ取っているのかも知れません。イースターエッグにしても元来は春分から日が伸びて太陽の力が復活するという太古の太陽信仰から来ていると聞いた事があります。実は中国でも「清明節」に卵を食べるという風習がかつてあったそうです。絵が描かれた卵を「画蛋」、絵を彫刻刀で透かし彫りにしたものを「彫蛋」と称して盛んに作られていたと言いますから、洋の東西を問わず卵は生命誕生の春を象徴する食べ物と言ってよいのでしょう。

料理屋ではゆで卵をそのまま出すということはしませんが、「滷水」という煮汁で卵を煮た「滷蛋」はソバの具材としても使用されます。「滷水」はスープにカラメルを加えて醤油色に着色し、ここにさまざまな香辛料や調味料を加えて味付けした香り高い煮汁です。この「滷水」で丸のままの鶏やアヒルなどを煮て味を含ませたものは前菜の1品となり、継ぎ足しては何度も使ってゆく内に旨味が濃縮するので、これを「老滷」と呼んで料理屋では店の宝として代々伝えてゆくものです。家庭では作るのも管理するのも大変ですので、「茶葉蛋」という簡単なゆで卵の作り方をご紹介しておきましょう。

「茶葉蛋」の作り方
1)卵はボイルして固まれば、殻を叩いて割れ目を入れておく。
2)鍋に卵がヒタヒタにかぶる程度の水を加え、紅茶の葉、塩、醤油で濃い目の味を付け、少量のシナモン、スターアニス(八角)を入れておく。
3)2)の中に1)を入れて沸騰すれば弱火にし、10分ほど煮て火を止め、煮冷して味を含ませる。

No.57 卵の加工品「皮蛋」

私が始めて「皮蛋」を食べたのは確か小学校低学年の頃で、父が「これが食べられたらかなりの食通だ」という一言に触発されて食べたように記憶しています。私が平気な素振りで「皮蛋」を食べるのを大人が驚いたり感心したりするのが子供心に誇らしく、始めは無理やり食べていたのですが、それでもあの味が根っから嫌いではなかったようにも思えます。そもそも我が家にはごくまれに(上野動物園が近いのが幸いして)近所の剥製屋の職人さんから得体の知れない肉の差し入れがあり、やれ、ワニだとかキリンの肉だとかが新聞紙に包まれて持ち込まれて来るのを母がトンカツにしたり味噌煮にしたりして、キャーキャー言いながら人にも食べさせて喜ぶと言う、まるで落語に出てきそうな家庭でしたから、「皮蛋」もさほどの抵抗もなく食べられたのだと思います。しかし籾殻が混じった泥に包まれて、殻を割ると真っ黒で半透明な卵が現れるというショッキングな外観は、やはり尋常ではない食べ物の典型と言ってよいでしょう。

「皮蛋」が考案されたのは明代らしく、清の康煕年間に著された『食憲鴻秘』には次のようにその制法が記されています。
「鶏の卵100個に塩10両を用いる。まず濃いお茶に塩を溶かし、ここに木炭、ソバ、柏の灰を加えて泥状にする。これを卵に塗って一ヶ月貯蔵すればできる。清明節に作ったものが良品である」
『中国食物事典』によると現在の作り方は、水に紅茶、塩、木灰を入れて煮立てた中に、石灰や天然ソーダなどを加え、ここにアヒルの卵を入れて20℃~24℃を維持して40日ぐらい熟成させ、その後、卵を粘土で包み、籾殻をまぶして保存するのだそうです。

殻を剥くと「皮蛋」の表面に雪の結晶のような模様が現れることから、この模様を松の花に喩えて別名を「松花蛋」と言ったり、黄身の断面が草緑色、青黄色、緑褐色の3層になっていることから「彩蛋」、泥で覆うことから「泥蛋」などとも呼ばれ、黄身がしっかりと固まっている「硬心皮蛋」と黄身が固まりきっていない「糖心皮蛋」の2種類に分かれます。

櫛形に切った「皮蛋」に生姜と醤油を添えて食べれば「皮蛋」の味わいが最も際立ちますが、「皮蛋」の臭いが気になる方には「皮蛋豆腐」がお薦めですし、「皮蛋」入りのお粥「皮蛋粥」も人気があります。中には甘い点心の具材に使用する例もあり、蓮の実の餡に「皮蛋」、紅生姜を加えてパイ生地で包んだ「皮蛋酥」などは変り種の1つと言ってよいでしょう。「皮蛋」と甘い餡子の組み合わせは我々には今ひとつピンときませんが、広州では一般的な点心の1つとされています。

No.58 卵の加工品「鹹蛋」

「鹹蛋」は生卵を塩水に漬け込んで作る卵の保存食品で、「鹹蛋」の「鹹」とは「塩辛い」という意味を表します。塩水には藁灰が加えられているため卵の表面は黒く、藁灰をヘラで掻き取った跡が白い筋となって売られています。中国の市場では「鹹蛋」がうず高く積まれているのをよく見かけますが、始めて見る人はその不思議な光景にビックリされることでしょう。「鹹蛋」は藁灰を洗った後ボイルして、通常は黄身のみを使用します。白身も食べられるのですが塩辛いだけで美味しいものではないからです。一方黄身にはチーズに似た風味があり、一種の調味料として料理に使用されます。例えば広東料理の「鹹蛋蒸肉餅」は豚バラ肉のみじん切りに酒と片栗粉、調味料、葱、生姜などを加えてよく練り、この中に「鹹蛋」の黄身を加えてこれを皿に広げ、さっと蒸して作る料理で、広東や香港の家庭でよく作られます。軟らかな肉に「鹹蛋」の風味がほのかに利いて、さっぱりした中に濃厚な風味が隠れているとでも言ったら良いのでしょうか、作り方は単純ですが奥深い味わいの料理です。イタリア料理で料理に粉チーズをかけるのとどこか似ていると思っていただければその味が想像できるのではないでしょうか。

日本には生食文化が根付いているため卵も生でご飯にかけて食べ、卵の新鮮さを大切にします。そのため卵を塩漬けにして保存するという発想がそもそも存在せず、「鹹蛋」の味にも慣れていません。ですから初めて食べた時は「何でこんなものを入れるのか?入れないほうが美味しいのに」と感じてしまいます。例えば甘い蓮の実のアンの中に「鹹蛋」の黄身を丸ごと入れた「月餅」の「蓮茸蛋黄月」などは確かに切ると中から「鹹蛋」の黄身が満月のように現れて見た目は良いのですが、品の良い蓮の実アンの甘さと「鹹蛋」の個性的な塩味がどうもミスマッチに感じられてなりません。ただしこの「蓮茸蛋黄月」、中国では不動の人気を誇り、贈答品としても喜ばれています。おそらく子供の頃から食べつけているために「鹹蛋」が入っていないとむしろ物足りなく思えるのでしょう。日本人が食べる卵かけご飯も卵を生食しない外国人からすると不気味に見えるのだそうですが、「鹹蛋」もこれと同じ事なのかも知れません。

No.59卵の加工品「糟蛋」

「糟蛋」の「糟」は酒糟のことで、「蛋」は卵を意味しますから、名前の通りに訳せば「卵の酒糟漬け」ということになりますが、実際は酒の絞りかすを使用するのではなく、酒の「もろみ」の中にアヒルの卵を漬け込んだもので、卵の加工品の中では最も高価で贅沢なものと言う事ができます。私が料理の見習いをしていた頃、店に「糟蛋」の試供品が業者から持ち込まれ、味見と言うことで一口食べさせてもらいましたが、赤味を帯びた黄土色のまるで土の塊のような外観からおよそ卵とは思えないものでしたし、味は紹興酒の酒糟そのもので、あまり美味しいとは感じられませんでした。『中国烹飪百科全書』によると「白身は乳白色で柔らかいゼラチン質、黄身は赤味がかったオレンジ色で半凝固状態」とあり、私の食べた「糟蛋」とはかなり違っています。私の料理の師匠筋にあたる黄先生は日本に来て初めて「糟蛋」を口にしたそうで、兄弟子が言うには「私も糟蛋が食べられる身分になった」と感激されたそうです。「糟蛋」にはさまざまな産地があり、浙江省平湖県産が最も上質とされますから、おそらく黄先生が食べたものがこれで、私のはこれとは違う質の劣るものだったのでしょう。

「糟蛋」が他の卵加工品と最も異なるところは、殻が付いておらず薄皮に覆われているという点です。それは「糟蛋」の制法に秘密があり、卵の殻にヒビを入れてから紹興酒の「もろみ」に漬け込むと酒の酸味で殻が溶けてしまい、薄皮だけが残るためと言われています。また殻にヒビを入れるのが一つの特殊技術で、竹の薄い板で卵を軽く叩き、上から下に縦一線のヒビを卵全体に施すと言いますから、誰にでもできるというものではなく熟練の技と言ってよいでしょう。これを「もろみ」に4~5ヶ月漬けると「糟蛋」が出来上がります。また製造時期は清明節のころが良いと言われており、卵を食べる風習がある清明節と何か関係が有るのかと思いましたが、気温が高くなる夏になると「もろみ」が変質してしまうので風味を保つために仕込みは清明節の頃が良いのだとか、理由は以外に合理的なものでした。「皮蛋」も清明節の頃に作るのが良品とされますが、これも同じ理由なのかもしれません。命の誕生を象徴する「卵」と日差しが延びて太陽の力が復活する「清明節」との関連性は卵の加工品に関しては無かったということで、民俗学と科学の対決はとりあえず科学にはなを持たせることにしておきましょう。

ここで「ナズナ饅頭」(萕菜包子)の作り方をお教えしておきましょう。
1)ナズナは根ごと引き抜いて泥をよく洗い流し、さっとボイルして水に取り、よく水気を絞っておく。
2)このナズナを細かく刻み、新竹の子と戻した干し椎茸のみじん切りをナズナの半分量加える。
3)ここに、塩、醤油、オイスターソース、胡椒、ラードを加えて混ぜ合わせ、饅頭の餡を作る。
4)小麦粉にドライイーストを加えて水で練り、発酵すれば砂糖、ラード、ベーキングパウダー、ごく少量のカンスイを加えて練り合わせ、生地を作る。
5)生地を分割してナズナ餡を包み、5センチ程度の饅頭に整えて蒸籠で8分蒸す

「ナズナ饅頭」は野菜だけで作っているのにも係わらず、まるで肉が入っているような美味しさがあり、サッパリとして芳醇、飽きのこない味わいは確かに蘇軾の言葉通りと言ってよいでしょう。また饅頭生地が難しければ同じ具材でワンタンや水餃子、春巻きなどを作ることもできます。

我が家の子供たちがまだ小さかった頃、1月になると皆でナズナを摘みに出かけ、「ナズナ饅頭」を作ってよく食べたものです。子供たちにナズナを教えるとてんでんに摘みに行き、戻ってきては「これはナズナ?タンポポ?」と聞きに来たものです。また家に帰って「ナズナ饅頭」を作ると「おいしいおいしい」といって喜んで食べていましたが、その子供たちも皆成人して、どこぞのレストランの料理がどうだったなどと生意気な事を言うようになりました。最近はナズナを摘みに行こうと言っても誰も行くとは言いませんし、ナズナ饅頭が食べたいとも言いませんが、美食だけではなく素朴さの中に品格のあるナズナの味わいも思い出してもらいたいものです。きっとそんな時が来るとは思いますが、今のところ我が家ではただ一人、私だけの「清供」になっています。

篠田統氏は「近世食経考」の中で中国の料理書を「食単類」「佳肴類」「殊品類」「清供類」に分類されています。「清供」とは政争に敗れて在野に下った知識人が世俗を厭って追い求めた風流な料理を意味し、特に野菜料理などの清らかな料理を「清供」と称します。『大漢和辞典』に「清供」を引くと『和漢三圖會』「玉簪」の「画譜に云う、其の花弁に少しく糖霜を入れ、煎食せば、香清味淡、清供に入るべし」という用例が出てきますが、「玉簪」とはタマノカンザシの和名を持つ植物でギボウシの仲間、山菜ではウルイに近い植物です。雑草をあれだけ載せている『救荒本草』にも現れないので、ほとんど顧みられない草だと思われますが、この誰も食べない誰も知らない「玉簪」の花を清い香り、淡白な味わいと賞して、世俗が好む料理と一線を画すのが「清供」の特徴です。代表的な料理書には宋代に著された『山家清供』がありますが、ここでは蒸した瓢箪を「藍田玉」と名付けてみたり、大根の粥を「玉糝羹」などと呼んで故事来歴を語っています。たかだか瓢箪の蒸し物ですがその姿が透明で緑がかっていることから「藍田」の翡翠に喩え、大根を白玉に見立てて薀蓄を大いに語るわけです。この薀蓄がやや鼻につくので好みは分かれるのですが、「清供」に多くの賛同者が居るのもまた事実で、政争に敗れて官職を失った知識人や世捨て人達が「清供」という食のジャンルを確立して行った訳です。

詩人として知られ美食家でもあった蘇軾が愛した料理は後世彼の名にちなんだ料理名が付けられました。例えば彼の号「東坡」を冠した「東坡肉」は「豚の角煮」として我々にも馴染み深いものです。蘇軾はまた悲運の政治家でもあり、政争に敗れた後は知事として中国各地を転々としたのですが、そんな境遇の中にあって彼はナズナについて次のように述べています
「あなたがもしナズナの味を知ったなら、陸海の八珍などはみな下品で飽きがくる味に思えるでしょう。天はナズナを生じさせて幽人山居の者に俸禄として与えたのですから、おろそかにすべきではありません」
蘇軾が愛したナズナのスープは「蘇軾羹」と称されて後世に伝えられたため一つの風格を得ましたが、当時蘇軾がそうであったようにナズナはその真の価値を評価されない野草です。農家にとってはやっかいな雑草であり見向きもされない野の草でありながら、その味だけはフカヒレにも引けを取らない隠れた食材であり、中国で言う「野菜」の筆頭と言ってよいものです。

ナズナは味が良い野草で苦味もないのですが繊維質が強いため、湯がいた後、細かく刻んでから調理します。ここに醤油と胡麻油で味付ければそれだけでも前菜になりますが、椎茸や中国ハム、松の実などを加えると一層風味が増します。以前上海で食べたナズナの前菜はナズナとアンズの種(杏仁)を和えたもので、ポリポリとしたアンズの種の歯ごたえや香りのコントラストが面白く、こんな食べ方もあるのだなあと感心しました。要はナズナをベースにし、色や味、歯ざわりを考えて他の材料を加えればさまざまな前菜が出来上がり、さらにこれを饅頭やワンタン、春巻きなどの具材にすれば色々な料理が手軽に楽しめる訳です。

スープにする時も下ごしらえは同様で、湯がいた後ナズナを刻んで他の具材と一緒にさっと煮込み、塩で味付けるだけで清清しい香りが立ち、青々とした色合いが春の芽吹きを思わせる素朴で品の良い料理となります。私の恩師、今は亡き聶鳳喬先生もナズナのスープが好きでした。先生は材料学の権威であり楊州大学の教授でしたが、若い頃から苦学された方でもあり「私は小学校しか出ていない」が口癖でした。しかし、各地で苦学された経験が文献学者では知りえない豊富なフィールドワークに裏打ちされた学問を形作り、そこに子供の頃私塾で暗証させられたという漢詩の素養が加わって、先生の野菜に関する随筆は独特の魅力を放っています。その随筆集『蔬食斎随筆』中に先生が得意としたナズナと豆腐のスープ「萕菜豆腐羹」の作り方が記されています。
「春になると私はナズナを摘み、豆腐一丁を買ってきて自分でスープを作る。竹の子や肉を細く切ったものを入れても良いし、何も加えなくてもよいが、ただ、必ずラードを少しだけ垂らすようにする。好みで酒を加えたり胡椒ふってもまた風味がよい」

中国の市場でナズナが売られているのを私は見た事がありません。おそらく売られていたとしてもわざわざ買う人は少ないと思います。聶先生のナズナと豆腐のスープは高価なご馳走ではありませんが、清貧の研究生活を長く送られた先生には思い出深い特別な料理だったことでしょう。先生の随筆を読んでいると「高いばかりがご馳走ではないよ、誰も気がつかないところに本物が隠れているよ」と私には優しかった先生が言っているように思えてきます。

日本語と中国語は同じ漢字でも意味が違う事があり、中国語で野菜は「蔬菜」、山菜は「野菜」と呼ばれます。ただし中国語の「野菜」には山菜という意味だけでなく、普段は雑草と見なさているが飢饉の時に食べる野の草という意味も含まれるため、日本語の「野草」に近い言葉と言う事が出来るでしょう。そんな中国の「野菜」の代表格はなんといってもナズナなのではないでしょうか。ナズナはどこにでも生えている言わば雑草ですから日本人はこれを山菜とは見なしませんが、中国では春の「野菜」として最も人気があるものです。

さて漢字で「萕菜」と書くナズナはグルメとして名高かった蘇軾の好物としても知られており、古くは『詩経』国風「谷風」に「其の甘きこと萕の如し」とその美味しさが詠われているほどです。日本でも春の七草の1つとして七草粥に入れて食べられていますが、以前はこの時期だけ市場で売られていたナズナも最近はめっきり姿を消し、七草の盆栽にされたり、七草セットと称してほんの形程度食べるに過ぎません。この点中国では春になると盛んにナズナを食べ、特に江南地方ではナズナの前菜、ナズナのスープ、ナズナと竹の子の葛引き等々、色々な料理に利用しています。かくいう私もナズナが大の好物で、1月になるとナズナを摘んで饅頭を作り家族で食べるのを楽しみにしています。

ナズナはちょっと探せばどこにでも生えていますが、茎が伸びる前の若菜はタンポポによく似ているので見過ごしてしまうかも知れません。見分け方はタンポポより葉の刻みが深く根元が赤味がかっており、葉をちぎるとゴボウに似た香りがあることでそれと解ります。そして1つ見つけると今まで気づかなかったナズナが次々に見え出して、それはもう夢中になって楽しいものです。以前、お世話になっている三浦の農家にナズナを採りに行った事がありましたが、ナズナが生えている畑と生えていない畑があり、どうしてなのか尋ねたところ、ナズナが生える畑は堆肥を施している畑で堆肥の中の種が発芽するのだそうです。農家にとっては厄介者の雑草ナズナですが、その味は野菜に劣らないばかりか、香りや濃厚な味わいは一般の野菜より優れているように感じられます。ナズナ好きの私としては以前のようにせめて七草の時期だけでも売ってもらいたいと思いますが、日本ではその食べ方が限られているので商品にならない「野菜」なのです。

私が六本木四川飯店で修行していた頃、1月になると決まって胡麻団子や小さな白玉団子を作ってデザートに出していました。胡麻団子はオレンジや冬瓜の蜜煮、砂糖やラードなどを黒胡麻に加えて餡にし、これを白玉粉の生地で包んだものです。これをよくボイルして、温めたお湯に浮かべたものを「湯圓」と呼びます。また小さな白玉団子の方は「小湯圓」と呼ばれ、5㎜ほどの団子を湯がいてシロップに浮かべたものです。時にはもち米で作った甘酒をシロップに加えることもあり、こちらは団子に餡が入っていないので必ず甘いシロップに浮かべて出します。その頃の四川飯店ではこれにミカンの缶詰を入れるのがお決まりでした。ミカンの缶詰が貴重だという時代でもなかったので、入れないほうが上品なのにと思いながら作っていましたが、後になって「湯圓」は旧正月の十五夜「元宵節」に食べる風習があることからこの団子を「元宵」とも呼んでいることや、「小湯圓」のミカンもミカンの総称「橘」が「桔」と書かれる事から「大吉」の縁起をかついだ正月の食べ物だと知りました。台湾の民謡に「一碗湯圓満又満、吃了湯圓好団圓」というのがあるそうですが、「湯圓」が丸々として満ち足りた満月のような姿であることや、「湯圓」が一家団結を表す「団圓」に通じることから、正月の十五夜に縁起のよい食べ物として欠かせないものだったのです。

辛亥革命で清王朝が倒れ、中華民国初代大統領に袁世凱が就任したその年の1月、突如「元宵」は今後「湯圓」または「粉果」と呼ぶようにという通達が出されたそうです。自らが皇帝となって帝政を復活させようと企てていた袁世凱は町中いたる所で「元――宵」と長く伸す胡麻団子の売り声を聞き、これは「元宵」に「袁消」つまり「袁世凱を消せ」と言う意味を込めた悪意だと勘ぐったのですが、このばかげた通達が民衆のお笑い草となり、反袁運動はますます高まったと言われています。

かつての日本人は闇夜を照らす月に隠された人の心中を見通す霊性を直感し、月は何もかもお見通しだという月への畏敬や信仰を持っていました。昭和の古い歌謡曲に「月は知ってるおいらの意気地」という歌詞があったように覚えていますが、日本人の月に対する特別な思いは一昔前まで確かに息づいていたのでしょう。私が子供の頃、十五夜になると竿に針をつけて隣の家の月見団子を盗みに行くという行事?がありました。今ではとんでもないと言われるのでしょうが、縁側では隣のおばさんが待っていて「もっと持って行ったら」などと笑われたものです。昔の子供はよく月を眺め月と遊び、親に「お月様に見られているよ」などとも言われたものです。袁世凱と「元宵」の逸話は言葉のくい違いから来るいかにも中国らしいお話しですが、袁世凱の末路をお月様はやはりお見通しだったということでしょうか。

旧暦1月15日は新年になって初めて満月を迎える日であるため、この日を元宵節と呼んでお祝いします。古くは「上元」「元夕」と呼ばれたり、この日にランタンやボンボリを飾ることから「灯節」とも呼ばれました。由来は諸説あるのですが、1つは道教の神「天官」が生まれた日を祝うというもの、1つは釈迦が神変して群魔を降伏させたという日を記念するもの、1つは田の害虫を焼く火祭りに由来すると言うものなどで、漢の文帝が「諸呂の乱」を平定して帝位についたものこの日であったことから、漢代以降元宵節が盛大に祝われるようになったと言われています。

宋代の風俗を記した『夢梁録』などを読むと当時の元宵節はたいへんな賑わいで、歌舞音曲の一行が街路を練り歩き、料亭などは一晩中ドンチャン騒ぎする客で溢れたようです。庶民はそういう訳にはいきませんがそれでも町中にくり出し、華やかなランタンや美しく飾られた山車、滝のように点火された花火が輝いて昼間のような明るさなのを大喜びし、遠くの山に数千のかがり火が模様を描く様を見て楽しみました。また山から町を眺めると、人々が持つチョウチンが揺れてまるで天の川を横切る流れ星のように見えたそうです。人々はさまざまな見ものを楽しみましたが、中でも趣向を凝らしたランタンが一番の人気だったようです。最も豪華なものは五色のガラス板に山水画などを描き、大きいもので三四尺(90~120㎝)と言いますからガラスが貴重な時代としては大変高価だったことでしょう。また金箔や鼈甲、玉のビーズで飾られたもの、羊の皮で作った影絵や走馬灯などさまざまな趣向を凝らしたものがありましたが、一般的なランタンは薄絹で作られて花などが描かれていました。中には漢詩なども書かれ、隠語で話題の人物、世相などを茶化した物や「なぞなぞ」などもあったので、みな面白がって人だかりができたと伝えられています。

このように盛大に祝った元宵節の風俗は今日ではほとんど見る事が出来ません。かなり以前に香港でたまたま元宵節にぶつかったことがありましたが、広場の華やかな飾り物も元宵節の飾りではなく、明らかに春節の残り物だったので少しガッカリした記憶があります。その夜スターフェリーを降りると波止場に花束を売る女の子が大勢おり、聞いてみると今日はバレンタインデーとのことでした。バレンタインデーは女性からチョコレートをもらうものとばかり思っていましたが、香港では男性が女性に花束を贈るのだそうです。そう言われればレストランに入ってゆく若いカップルの姿があちらことらに見られ、レストランも窓に赤いチョウチンをたくさん飾り付けて華やかに装っています。このチョウチンは本来元宵節のための飾りなのにと思うと伝統が失われてゆくことに寂しさを感じるのですが、普段あまり口をきかない娘たちから「お父さんチョコレート」などと言われて嬉しがる自分を省みると、当節元宵節がバレンタインデーに変わって行くのも仕方ないことかと思えます。

さて六朝時代の「五辛盤」は唐代になると「春盤」と呼ばれるようになり、この「春盤」には必ず薄い小麦粉の皮を盛り合わせて、生野菜をこの皮で巻いて食べるようになったことから、この皮を「春盤の餅ぴん」つまり「春ちゅん餅ぴん」と呼ぶようになりました。中国語の「餅ぴん」は日本語の「もち」とは違い、小麦粉を練って作った食品を広く指す言葉です。また「春ちゅん餅ぴん」は今日「薄餅ぱおぴん」と呼ばれており、北京ダックを包む小麦粉の薄い皮を指しますから、「薄餅ぱおぴん」と言った方が解りやすいかもしれません。ただ、どのように作るのかはあまり知られていませんから、ここでその作り方をご紹介しておきましょう。

  • 強力粉に熱湯を加えて、耳たぶ位の柔らかさに練っておく
  • これを棒状にのばして2cm程度に切り分け、手で押して5cm程度の円形にする
  • 2)の片面に胡麻油を塗り、油を塗った面を合わせるようにして2枚を重ねあわせる
  • 3)を麺棒でシワがよらないように円形に延す
  • 4)を空鍋に入れて弱火で煎ると少し膨らみ始めるので、焦げない内に上下を反転させて両面を乾煎りする
  • 5)が膨らんでくれば鍋から取り出し、すばやく手で叩いて中の空気を出し、2枚に離す

このように2枚の生地を張り合わせて薄く延ばし、焼いた後に2枚に離せば、延ばした厚みの半分の厚さになりますから、非常に薄い「餅ぴん」となる訳です。

六朝時代の「五辛盤」は生ニンニクなどの辛味の強い野菜を食べて邪を払う風習でしたが、唐代になるとこれをもっと食べやすいものに改良し、ニンニクをはじめとする「五葷」以外の野菜も自由に取り入れて、「春餅」で巻いて食べるようになりました。さらに清朝時代になると肉類を加えてより美味しい料理に作り変えています。『帝京歳時紀勝』には「新春の日に春盤を献ず、あに士庶の家にてもまた必ず鶏豚を割かんや、麺餅を炊ぎ、まじえるに生菜、青韮芽、羊角葱を以ってし、冲して菜皮を和合す。兼ねるに水紅蘆蔔を生にて食し、名づけて咬春という」と述べられ、『清稗類鈔』には「春餅は唐すでにこれ有り、麺を捶うちて極めて薄くせしめて熯かわかし熟す、すなわち「炒肉絲」を中に置き、巻きてこれを食す」とあって、要するに「薄餅ぱおぴん」でチシャ、韮、羊角葱(分葱の芽?)、肉の細切り炒めなどを混ぜ合わせたものを巻いて食べるのだと言っています。またこれと一緒に生大根を食べるのが決まりだったようで、大根のシャリシャリした歯ざわりが早春の薄氷に似ていたためでしょうか、これを洒落た言い方で「咬春」と呼んだそうです。

清朝時代には立春の日に「春ちゅん餅ぴん」を食べたと伝えられています。「春餅」とは小麦粉で作った薄い皮に芽吹いたばかりの春野菜や肉の細切り炒めなどを包んだもので、春の芽吹きを寿ぐ趣ある風習でした。残念ながらこの風習は廃れてしまいましたが、「春餅」を油で揚げた「春巻」は今でも人気が高い点心として日本でもよく知られています。ただし「春巻」は今や一年中売られている季節感の無い食べ物になってしまったので、その名前の由来もすっかり忘れられています。

さて「春餅」の来歴は唐代に遡るといわれています。『中国麺点史』に引く『四時宝鏡』には「立春の日、蘆蔔、春餅、生菜を食して、春盤と号す」とあり、『関中記』には「唐人立春の日に春餅を作る、青蒿、黄韮、蓼芽を以ってこれを包む」とあるように、もともと「春餅」とは小麦粉で作った薄いクレープ状の皮のことを言い、これに春野菜を包んだものを「春盤」と称していたようです。またどんな春野菜を包んだのかについては諸説あり、一説には六朝時代、元旦に食べられていた「五辛盤」に由来する5種類の匂いの強い野菜「五葷」のことだとも言われています。

「五葷」とは5種類の「生臭もの」つまりニンニクのように匂いの強い野菜のことですが、仏教と道教ではその内容が少し違っており、仏教では大蒜(ニンニク)、小蒜(ラッキョウ)、興渠(アギ、ウイキョウの仲間でインド中央アジア原産)慈葱(エシャロット)、茖葱(ギョウジャニンニク)の5種、道教では韮(ニラ)、薤(ラッキョウ)、蒜(ニンニク)、芸薹(アブラナまたはカラシナ)、胡荽(コリーアンダー)の5種とされています。アギは日本に自生しないのでどのような匂いなのか解らないのですが、ニンニクやラッキョウ、葱などがそうであるように、「五葷」は匂いが強く生で食べると辛味の強い野菜や山菜です。おそらく「五辛盤」はこれらの野菜を生で盛り合わせた料理であり、今で言えばサラダということになるでしょう。ただし、生のニンニクなどは非常に辛く美味しいものではないので、「五辛盤」には辛いものを食べて邪を払うという意味合いもあったのではないでしょうか。また漢方の考えでは、春に辛味の強い物を食べることは「肝」の働きを強化して健康によいとされており、「五辛盤」は一種の健康食品でもあったのです。

今では一年中食べられる餃子ですが、本来は大晦日に食べる風習があります。夜中の12時が「子ねの刻」呼ばれていた時代、大晦日の「子ねの刻」は「更歳交子」つまり「旧年と新年が子の刻で交わる」年越しの大切な時間でした。そこでこの「更歳交子」に食べるギョウザを「餃子」と書くようになりました。つまり餃子は旧年中に包んで準備し、さあ新年が明けたという時に食べる年越しの食べ物なのです。またこの餃子の中に氷砂糖やピーナッツ、銀貨などを入れて、砂糖に当たると「生活が甘い蜜のように安楽なものであるように」、ピーナッツに当たると「長生果(ピーナッツの別名)にちなんで健康長寿であるように」、銀貨に当たれば「お金にこまらない」などと縁起をかついでにぎやかに団欒するのが中国北部の年越し行事です。

日本の年越しと言えば「年越し蕎麦」ですが、やはり中国でも中華ソバを食べる地方も有るとのこと。所によっては餃子入りの中華ソバを作り、「金絲穿元宝」(銀貨に金糸を通す)という縁起をかついだと言われます。日本風に言えば「大判小判ザックザク」といったところでしょうか。中国の餃子は水餃子なので早い話が「ワンタンメン」に近い料理を想像すればよいのですが、「ワンタンメン」と「大判小判ザックザク」のイメージはわれわれ日本人には連想できないものです。しかし考えてみれば日本のおせち料理もかなり強引な語呂合わせや外国人には想像できない日本人のイメージで作られているので、まあお互い様と言うところでしょう。

日本の除夜は鐘の音を聞きながら一年を振り返って、来年もよい一年であるように願うしみじみとしたものです。テレビも「紅白歌合戦」が終わると急に「行く年来る年」に切り替わって祈る人々の姿が映し出され、何か神妙な気持ちにさせられます。最近はカウントダウンで大騒ぎするようですが、中国では昔から爆竹をけたたましく鳴らして、日本の大騒ぎをはるかに超えた大迫力で新年を祝います。伝説によると太古の昔大晦日に「年獣」という怪獣が現れて町を襲った事から、この「年獣」を追い払うために爆竹を鳴らしたとか。そういえば日本でも旧暦の大晦日「節分」に鬼退治をするので爆竹と由来は同じことになります。日本の大晦日はやはり年越し蕎麦でなければ感じが出ませんが、節分には肉料理を一つ加えて、餃子で祝ってみてはどうでしょうか!

No.34 年越しの料理 ―年糕―

餃子で年越しをするのは中国北部の風習だそうで、中国南部では「年糕」を食べる習慣があるようです。「年糕」とは日本の餅に似たもので、「糕」と「高」の音が同じであることから「年年高」(年々生活が豊かになる)という語呂をかつぎ、縁起物とされる訳です。「年糕」の作り方は、うるち米にもち米を少し加えて水に浸し、これをひき臼で挽いてドロドロの状態にしたものを一度蒸し、軽く搗いて木型に入れ形を整えます。このようにして作った「年糕」は神々に供えて年越しの神事に用い、また元旦には祖先への供え物や年始の贈答品として贈り合うとの事。日本の餅と違ってうるち米が主となるので柔らかく、薄く切ってスープに入れたり肉や野菜と炒めて食べたりします。中国は昔から「北麺南飯」という言葉があるように、北部は小麦を中心とした雑穀食文化、南部は稲作を中心とした米食文化に分かれて、それぞれの食文化が独自に発達したため、小麦も米も問題なく手に入る今日でも北部は餃子、南部は「年糕」という習慣が失われる事はありません。

「年糕」の由来には古い伝説があるので紹介しておきましょう。春秋戦国の昔、呉国の重職にあった伍子胥という人物は呉王の乱れた生活ぶりを度々叱責しましたが、聞き入れられる事がなかったため呉国は必ず滅びると感じ、家の者たちに「私の死後、食べる物に困る事があれば城門の下を三尺堀なさい」と言い残したそうです。その予言の通りに呉国はやがて滅び、食糧も尽きた時、家の者たちは遺言を思い出して城門を掘ったところ、その下から普通のレンガとは違った米で出来たレンガを発見したそうです。以来、呉国の領民は毎年正月に米を蒸してレンガの形にしたものを作って食べるようになり、これが「年糕」の始まりと伝えられています。

中国各地にはさまざまな種類の「年糕」があり、真っ白い伸し餅のようなものから、砂糖や棗を入れた甘い「年糕」、大根や肉を加えて塩味に味付けしたもの、形も色もさまざまで、その地方ならではの味が楽しめます。中国南部と日本は同じ米食文化圏として似たような食文化を形作ったので、郷土色豊かな日本の「お雑煮」と同様、中国でも「年糕」の作り方や食べかたに、その土地土地の食習慣が現れているようです。

No.35 中国のおせち料理 ―髪菜蠔豉―

「髪菜蠔豉」とは「髪菜」と呼ばれる材料と「蠔豉」という牡蠣の乾物を蒸し煮にした料理で、「発財好市」(お金儲け商売繁盛)と音が同じことから縁起のよい正月料理とされるものです。「髪菜」は字の通り髪の毛とそっくりの外観で、その姿からはおよそ食べ物には見えませんが、念珠藻という藻の乾燥品です。戻す前はごわごわしていますが水に漬けてから蒸すと滑らかで微かに磯の香りがあり、日本の食材に喩えるなら海苔に近いものと言えるかもしれません。ただしこの「髪菜」は海産物ではなくシルククロード蘭州の特産品で、雨季のゴビ砂漠に生育する特殊な植物です。近年乱獲のせいで採取禁止となってしまいましたが、香港の食料品店ではまだ山のように積まれていますから、当分は中国南部のおせち料理として健在でしょう。また牡蠣の乾物も中国料理では一般的な食材です。これは生牡蠣を一度ボイルしてから天日乾燥して作られ、日本産が高級品とされています。広東料理には欠かせない調味料「蠔油」(オイスターソース)はこの牡蠣の煮汁を煮詰めて作るもので「蠔豉」のいわば副産物ですが、「髪菜蠔豉」は戻した「蠔豉」にオイスターソースなどを加えて調味し、「髪菜」と一緒に蒸してからトロミ付けて仕上げます。「髪菜」のトロリとした舌触り、牡蠣の濃厚な風味、陸の幸と海の幸が出会った素晴らしい料理です。

「髪菜」といい「蠔豉」といい乾物は中国料理には欠かせない食材と言って良いでしょう。また乾物に高級で珍しい食材が多いのも中国料理の特色で、古くは唐の時代、西域からラクダのコブを、インドや東南アジアからは象の鼻を長安に取り寄せて料理し、王侯貴族たちはその珍しさを競い合っていました。また明代ではツバメの巣やフカヒレなどが朝貢品としてもたらされたため、皇帝はこれらの料理をその権力の象徴としてもてはやしました。このように中国料理は世界各地から珍しい食材を乾物として取り寄せ、高級料理として調理して来たのです。この点われわれ日本人は食材の鮮度を大切にするので高級料理として乾物が重視されることはあまり無いといってよいでしょう。

「髪菜」や「蠔豉」はさほど高価な材料ではありませんが、それでも西はゴビ砂漠、東は日本から食材を集めて料理しています。われわれ東京の商売人が酉の市に熊手を買わないと何か縁起が悪い気分になるのと同じように、中国人も正月に商売繁盛を願って「髪菜蠔豉」を食べないではいられないのかも知れません。

No.36 中国のおせち料理 ―年年有余―

「年年有余」とは「年々余裕ができる」という意味で、「余」が「魚」と同じ音なので、魚を丸ごと調理した料理を「年年有余」と呼んでおせち料理に用います。形のまま魚1匹を使用すればどのような料理でも「年年有余」と呼び、魚の種類も調理法も問いません。例えば「紅焼全魚」(魚の醤油煮込み)、「清蒸全魚」(魚の姿蒸し)、「糖醋全魚」(魚の甘酢餡かけ)等々、普段から食べている料理も正月になると「年年有余」と呼んで縁起をかつぐ訳です。ただし、食べ方にはしきたりがあるようです。

『飲食習俗』に載る宋経文氏のエッセイ「従“年年有魚(余)”談起」には中国南方の風俗が記されており、たいへん面白いので紹介したく思います。ある地域では宴席の一番最後に出される魚料理に箸を付けないのが礼儀だとの事。それは魚に「余」の意味があるため「来年に余裕を残す」という気持ちを表すためだとか。またある地域では魚料理をテーブルの中心に置き、宴席の最後まで箸を付けないという風習があり、これも「余裕を残す」という意味だそうです。そういえば王仁湘著『民以食為天』にも、ある農村の宴会に木を彫って作った魚にタレを掛けただけの料理が出される話が載っていました。これも魚料理は余すのがしきたりなので、食べないのなら形だけ魚料理を出そうという考えから来ているのでしょう。魚料理にはこのような意味合いがあるので、中国で魚料理が出てきたらこれらの話を思い出して召し上がってください。

さてその食べかたは?これは自戒なのですが、「1」薦められても箸を付けるのをじっとこらえ、とりあえず辞退して他の人に勧める! おそらく「そうは言わずに、せっかくの料理ですから遠慮せずに箸を付けて下さい」と言われるでしょうが、「2」くれぐれも魚の一番美味しいところを真っ先にガッツクのはやはり我慢して、頭と尾の中間を上品に一口食べる! この際、特に結婚式では頭と尾を切断してしまわないように気を付けるそうで、「分かれる」につながって縁起が悪いとの事。また魚の頭は賓客に向くように出されるため、魚の頭がこちらを向いていたら、やおら乾杯の発声をして感謝の気持ちを伝え、率先して箸を付けないと誰も食べられないのだとか。このように魚料理にはその食べ方にもさまざまな風習があるようですが、我々は外国人なのであまり深く考えず、この遠慮の塊を薦められるままに美味しく一口食べて、さあ皆さんで召し上がれという気持ちを表せば充分ではないでしょうか。

No.37 中国のおせち料理 ―全家福―

「全家福」とは馴染みのある料理で喩えれば「八宝菜」と同じ物で、五目材料の煮込み料理です。材料に特別の決まりはありませんが、肉と海鮮、野菜を組み合わせて材料が偏らないようにするのがポイントです。例えば皮付きバラ肉、鮑、海老、椎茸、ガツ、ブロッコリーというようにバラエティー豊かに彩りよく材料を組み合わせれば、嫁いだ娘たちが孫を連れて実家に帰って来たかのようなにぎやかさ、まさに「全家に福があるように」というおめでたい料理になります。また肉団子ように丸い形の材料を加えると「闔家団圓」(全家が団結する)と料理名が変化し、材料が五種類であれば「五福臨門」(五福が門を訪れる)と名付けられます。日本で「福」と言えば七福神の「七福」と言うことになりますが、「五福」とは儒教の聖典『書経』が言う長寿、裕福、健康、道徳を楽しむ事、天命を全うする事の5つとされています。さすがに聖典だけあって「道徳を楽しむ事」「天命を全うする事」という聖人君主の幸福が加わりますが、これを「長寿」「裕福」「健康」「名誉」「子孫繁栄」に変えれば実感の沸く「五福」となるでしょう。子供や孫たちに囲まれて幸福に暮らせる老後が現代では夢のような理想になってしまいましたが、正月元旦だけでも「五福臨門」でありたいものです。

さて「全家福」や「五福臨門」は五目材料の煮込み料理で「八宝菜」もしかり、中国人は昔からさまざまな材料を混ぜ合わせた料理を好んできました。古くは『礼記』に当時のご馳走である「八珍」の作り方が記されており、その中の「擣珍」という料理は牛、羊、ナレ鹿、鹿、ノロの肉を混ぜ合わせた料理です。また肉の刺身である「膾」も赤身肉と脂身の紅白を細かく切り、混ぜ合わせて作るために肉を表す「月」に混ぜ合わせる「会」を加えて「膾」という文字で表しました。日本人も刺身の盛り合わせは大好きですが、さすがに細かく切って混ぜ合わせるという習慣はありません。ややそれに近い「散らし寿司」があるものの、もともとは余りの材料で作る賄い料理だったとか、刺身や寿司はやはり1つ1つの材料を食べ分けて、その違いを楽しむ料理だと言えましょう。

中国料理は「五味調和」を理想とし、さまざまな味を組み合わせて調和させることを良い料理、美味しい料理とする伝統がありますから、おせち料理の「全家福」にもこれが現れているのでしょう。また親子兄弟といってもそれぞれに個性があり、一致団結しなければ家は繁栄しないので、皆協力し合えという戒めが「全家福」というおせち料理に込められていると言えるかもしれません。

No.38中国のおせち料理 ―大吉大利―

「吉利」は「めでたい」という意味の中国語で、これにそれぞれ大が付くのですから「アーめでたやな、めでたやな」という所でしょう。この「吉」の音が中国語では「鶏」の音に通じ、「利」が「栗」に通じるため、「栗子焼鶏」という料理が「大吉大利」の正月料理ということになります。ただし「焼鶏」と言っても「焼き鳥」のことではなく、「焼」は中国語で「煮る」ことを表し、「栗子焼鶏」は鶏と栗の煮物を指します。日本のおせち料理にも栗はよく使われますが、こちらは臼で栗を搗いて殻を取り去った「搗かち栗」の「かち」を「勝」にあてて縁起をかつぐもので、日本も中国も語呂合わせで大いにめでたがる訳です。また日本ではクチナシの実で色を染め、「栗きんとん」にしてその黄金色をめでるのですが、「栗子焼鶏」は醤油煮込みですから我々から見るとややめでたさが失われますが、中国料理は色ではなく味で勝負ということでご容赦ください。

この味という意味で言えば、中国や台湾、香港で食べる鶏料理は非常に美味しく、牛肉以上に人気もあり格式も高いのが特徴であるように思います。日本にも「名古屋コウチン」「薩摩軍鶏」「日向地鶏」などの高級で美味しい地鶏が有りますが、中国では広東の「三黄鶏」や上海の「九斤黄鶏」、海南島の「文昌鶏」、福建の「河田鶏」などが有名です。これら中国の地鶏は味の美味さもさることながら、皮がしっかりとしてシコシコした噛みごたえがあり、皮の美味しさが一つの魅力になっているように感じます。昔、台湾で食べた「白斬鶏」は今でもその美味しさが忘れられません。これは鶏をボイルしたものをぶつ切りにして前菜にしただけの料理ですが、皮と身の間に旨味がゼリー状に層をなしており、一口食べると皮とゼリーと肉がそれぞれ美味しさを競い合っているかのようで格別な味わいがありました。また広東料理には北京ダックのように鶏の皮に水飴を塗って揚げる「脆皮鶏」という料理があり、これも皮と肉の異なる食感と味を楽しむ鶏料理の1つです。このような素晴らしい鶏を使用すれば「栗子焼鶏」も美味しくないわけが無く、鶏の皮はプリプリして栗はホクホク、旨味の詰まったタレが絡んで、肉は骨からホロッと離れ、正月とは言わず一年中その「吉利」を味わいたい気分になります。

旧暦9月9日は重陽節、日本では「菊の節句」などと呼ばれ、陽暦で今年は11月1日がこれにあたります。テレビのニュースで菊人形を飾った「菊祭り」の様子が伝えられることがありますが、これはもともと重陽節にちなんだ催しでした。さて「重陽」とは陽数(奇数)が重なるという意味を持ち、陽数の中でも「九」は最高位の数であるため、「九」が重なる9月9日が特別な日とされたのです。また「九」は皇帝を象徴する数でもあり、故宮の赤い扉の金鋲が81個なのも9×9、つまり至高の数であることを意味しています。

さて中国ではこの日に「登高飲酒」つまり高台に登って飲酒する習慣がありました。またこの日に茱萸(カワハジカミ、山椒に似た香を持つ)を身に付け、蓬餌(ヨモギ団子)を食べ、菊花酒を飲むと長寿が得られると信じられました。王維は家族から離れて一人重陽節を祝う孤独な心境を「独り異郷に在って異客となる、佳節に逢う毎に倍ますます親を思う、遥かに知る兄弟高きに登る処とき、徧く茱萸を挿して一人少なきを」と詠いましたが、重陽節は秋のリクリエーション、家族団らんの時でもあったのです。

さて菊花酒をどのように作るのかは『聖恵方』という医学書に記されています。
“9月9日に甘菊花を採って乾燥させ粉末にしておく。もち米を蒸し、米1斗に対して菊5両を加えて酒を発酵させる。出来上がれば搾って温め、杯に1杯飲む。頭がふらつくのを治す効果がある”

9月9日に菊を採っていては重陽節に飲むことはできないので、菊の花弁を酒に浮かべるだけでも良いのかもしれませんが、できれば酒に乾燥した菊を漬け込む方が香り高いものになるでしょう。

No.18「菊」―菊の意象―

菊といえばこれをこよなく愛した陶淵明が思い出されますが、以来、菊は俗世を離れた隠者たちに愛される花となりました。その理由は、他の草花が冷たい秋風にさらされて枯れてゆくのに、菊だけはこれに逆らって美しい花を咲かせることから、他人と同調せず、逆境にあっても節を曲げない高潔さが菊の持つ徳目とされたからでした。宋代になると菊の種類や由来などを記した『菊譜』が盛んに出版されましたが、代表的なものを紹介しておきましょう。

『菊譜』宋 范大成

山林好事の者、或いは菊を以って君子に比ぶ。其の説にいいえらく、歳華晼えん晩ばん(歳も暮れ)草木変衰するに、すなわち独り燁よう然ぜん(盛んなさま)秀発(花や実の美しく盛んなさま)して風露を傲睨ごうげいするのみ。此れ幽人、逸士の操(おもむき)、寂寥荒寒するといえども道の腴(うるわし)きを味わい、その楽しみを改めざるなり。

『菊譜』宋 史正志

菊の性は介烈高潔にして百卉と同じからず。其の盛衰は必ず霜の降りるを待つ。草木黄落して花始めて開く。

『菊譜』宋 劉蒙

松は天下の歳寒堅正の木なり、而して陶淵明すなわち松の名をもって菊に配して連語す。而してこれを称するに、それ屈原淵明これ皆、正人、達士、堅操、篤行の流れなり、菊に至ってなおこれを貴重す。

このように菊は隠者に喩えられましたが、これに対して梅は他の花に先駆けて早春に開花し、清香を放つところから清廉潔白な高士に喩えられました。花期は正反対ですが中国の文人たちは菊や梅の高潔さに人としてのあるべき姿を見出したのでしょう。ただ人生の終わりにもなお心美しくありたいという願いが菊に対する思いいれの深さにつながったようです。

No.19「菊」―菊の料理―

菊は主にその香を楽しむ素材なので、主材料として用いることはあまりないのですが、菊を必ず使用する料理の1つに「蛇羹」(蛇のスープ)があります。かつて広州で広東料理の研修を受けた際に、地元の友人と蛇料理専門店に入ったことがありましたが、活きた蛇が何匹も入っている金網の籠を無造作に足元に置くのには度肝を抜かれました。日本でも水槽の活きた魚をお客様に選ばせるという店がありますが、蛇を選ばせるのも広州では一種のサービス?なのでしょう。ただ何を美味しそうと感じるか、何を嬉しいと感じるかは慣れ親しんだ食文化によりますから、我々も外国人を接待する際には充分気をつけなければと思います。

さてとんでもないサービスで驚かされましたが、料理の方はどうかというと、炒め物あり、揚げ物あり、蒸し物ありで、一般の中国料理と何ら変わることなく非常に美味しいものでした。特に「蛇羹」は芳醇なスープに具材の滑らかな舌触りが格別な味わいで、別皿に添えられている菊の花びらと揚げた小さなワンタンの皮を加えると、その香やサクサクした歯ごたえ、油の風味が加わって濃厚なスープのアクセントとなり、一層美味しく感じられました。おそらく初めて食べる人は蛇と言われなければ全く解らないと思いますが、秋の広州で菊の花びらが添えられたスープが出されたら要注意。ただし蛇料理は体を丈夫にすると言われる秋の高級料理ですので、もし蛇のスープが出されたらこれは最高の「おもてなし」なのだと考えてください。

蛇料理の話しで気分が悪くなっている方のために、最後は「菊花火鍋」という料理を紹介しておきましょう。これは菊の花びらをたっぷり加えた鍋料理で、魚や肉などの薄切りを菊の香りのスープでシャブシャブにするという、西太后が好んだ料理です。一般的な「火鍋」は中央に煙突の付いたシャブシャブ鍋を指すのですが、「菊花火鍋」では「酒精火鍋」というアルコールを燃料とする鍋が用いられます。鍋は円形のありふれたものですが、鍋を支える台が透かし彫りになっており、ここから炎がちらちら洩れる様は庶民的で無骨な「火鍋」に比べて上品で洗練された印象を与えます。この鍋に菊をたっぷり加えればその香りと色彩が秋の風情を醸し出して優雅さを一層高め、塩で調味した味わいは淡白でありながら芳醇な旨味を持っています。しかも菊には不老長寿の功能があると言われており、香り良し、形良し、色良し、味良し、効き目良しで、自分の好きなように食べることができるのですから、味やサービスにうるさい美食家にうってつけの料理、西太后が好んだというのもうなずけます。

No.20「菊」―菊の効能その1―

“河南省南陽の山中の水源に菊が多く生えている場所があり、麓の住人はこの水を飲んで長寿であり、七十、八十で亡くなると早死とされる。”
これは『太平御覧』に載っている逸話ですが、『神仙伝』にも“康風子は甘菊花,桐実を服して、後に仙人となった”と記されているように、菊は古くから不老長寿の仙薬とされていました。本草書に「軽身」とある菊の効能も、実は仙薬であることと関係しており、元気が出て体が軽くなると言う意味だけでなく、仙人が地上と天界を自由に行き来するように、体が軽くなって仙人に近づくことができるという意味合いを持つのです。このように菊には不老長寿や仙薬の効能があると言う伝説があるのですが、今日で言うアンチエージングの効果がはたして本当にあるのでしょうか?

近年、漢方薬の功能を科学的に解明しようとする薬理研究が非常に発達し、同時に医学の進歩によって、従来非科学的とみなされていた漢方薬の功能が科学的に実証され始めています。荒唐無稽にみえる菊の功能についても薬理研究の結果、菊には抗酸化作用があることが解明され、また実験動物の寿命を延ばしていると報告されています。そればかりでなく、心臓や脳の血輸量を高めたり、コレステロールの代謝を促進する作用があって、実際に高血圧や動脈硬化、心筋梗塞の治療などに使用されています。

『中薬大辞典』に紹介されている高血圧、動脈硬化の治療法は、「菊花、金銀花(スイカズラ)の乾燥品各24~30g(眩暈があるものは桑の葉12g、動脈硬化や高脂血症にはサンザシの実12~24gを加える)を4回分として、ここにお湯を注いで茶のように飲む」というもので、200人の被験者の中で早い人は3日から1週間で効果が現れ、10日から1ヶ月ですべての人に良い自覚症状が現れたと報告されています。また注意点として煮出してはいけないとされています。

乾燥した菊の花は「杭菊」と呼ばれ、ハーブティーの材料として中国ではごく一般的に飲用されていますし、日本でもたやすく手に入れることができますので、試してみる価値は充分にあると思います。ただし、菊には体を冷やす作用があるので、冷え腹で食欲がなく、下痢気味な人は慎まなければならないと言われています。

No.21「菊」―菊の効能その2―

漢方薬は一般に煎じて飲むものが多いのですが、皮膚病などには湿布薬として使用したり、薬液で患部を洗うなどの外用薬としても用いられます。そのような用い方の1つとして浴剤にするという方法があり、私自身、肌が乾燥して痒みがある時に利用している方法をご紹介しましょう。

木瓜、桑葉、野菊花、茵陳蒿、何首烏各10gを煎じて薬液を作り、一部を残して浴剤としてお湯に加え入浴する。入浴後、残しておいた薬液を患部に塗り、自然に乾かす。

これは『慈禧光緒医方撰議』(1981年中華書局)に載る西太后の浴剤を自分に適した処方に変えたものですが、茵陳蒿(カワラヨモギ)野菊花(シマカンギク)桑葉(くわの葉)には「祛風熱」という功能があって、肌の熱を除いて痒みを取り、これに「補血」の功能を持つ何首烏(ツルドクダミの根)、「活血」の功能を持つ木瓜(ボケの実)を加えて肌を滋養し、保護するという内容を持たせたものです。したがって肌がカサカサで温まると痒みが増すという症状に適し、入浴後に薬液を直接塗ると肌がすべすべになって痒みが取れ、それまで手放せなかった保湿クリームが私の場合全く必要なくなりました。

菊は菊茶にして飲めば高血圧や動脈硬化の予防になり、浴剤にすれば乾燥肌の痒みを改善するばかりでなく、リラックス効果や偏頭痛にも良く、大変利用価値の高いものですので、是非活用してみてください。

日本と中国の食文化は色々な点で異なりますが、日本では魚貝を中心とした食文化が発達したのに対し、中国では肉類を中心とした食文化が発達したという違いが大きいように思われます。特に羊は古代中国人に好まれており、例えば漢字の「美」は「羊」と「大」を組み合わせたもので、よく肥えて美味な羊を表しています。このように羊は美味の象徴であったため、「義」「羨」「善」などの漢字に羊が使われています。「義」という文字は「羊」と「我」を組み合わせていますが、「我」はもともとノコギリの形を持っていることから、羊を解体するさまを表しており、神への供え物として欠陥がなく正しいものであるという意味を持っています。また「羨」は「羊」と「涎」の略字を組み合わせたもので、羊にヨダレを垂らすさまを表し、羨むという意味を持ちます。「善」は「羊」の両側に「言」を2つ並べた形が本来の文字で、2つの「言」は原告と被告を表し、羊に神意を問うて善否を決するさまを表していると言われます。このように羊は生贄として神に捧げる神聖な動物でありましたが、それは自分たちにとって最も大切な食材であった羊を捧げれば、神も喜ぶに違いないと考えたからでしょう。

このような肉食に対する嗜好は周王朝のさまざまな官職について記した『周礼』という書物からも見て取れます。例えば当時の周王室に使える料理人は王室の飲食全般を管轄する「膳夫」を筆頭に、それぞれ専門分野の料理を担当する料理人が分業でさまざまな料理を作っていました。具体的には料理長にあたる「膳夫」に次ぐ地位に肉料理を担当する「庖人」、「庖人」の下には王族に供する料理一般を担当する「内饔ないよう」、祭祀や賓客のための肉料理を担当する「外饔がいよう」が配置され、さらにその下に肉料理でもスープや煮物を専門に作る「烹人」が置かれました。このような料理人の序列から肉料理がいかに重視されていたのかが解ります。

さて具体的にどのような肉料理が作られていたのかについては『礼記』という書物に記載があります。これによると王様に供される料理は先ずテーブルの最前列に牛肉のスープ、羊肉のスープ、豚肉のスープ、牛肉の焼き物が並べられ、第2列には角切りにした牛肉の刺身、細かく切った牛肉の刺身、第3列には羊の焼き物、角切りにした羊肉の刺身、豚の焼き物、第4列には角切りにした豚肉の刺身、魚の刺身、第5列にはキジ、ウサギ、ウズラ料理が並びました。これらが「膳」と称される格式の高いメイン料理で、このほかに「羞しゅう」と称される120品の一般料理が加えられたと伝えられています。

No.23「羊」―『呂氏春秋』「本味篇」中国最古の調理理論書―

『呂氏春秋』とは秦の始皇帝の父、荘襄王の宰相、呂不韋(りょふい)によって編まれた書物で、賓客として招いた思想家のさまざまな説を集めたものです。その中の「本味篇」は商の湯王と宰相伊尹との問答を通して、治世の要点を調理に喩えて語ったものですが、およそ紀元前200年頃に著わされたとされ、中国最古の調理理論と言うことができます。あまり一般的な書物ではないので、見る機会も少ないと思いますので、調理理論に関する部分を抜粋し、現代語訳も試みましたので、あわせて紹介しようと思います。

夫三群之虫、水居者腥、肉玃者臊、草食者膻。臭悪犹美、皆有所以。
凡味之本、水最為始。五味三材、九沸九変、火為之紀。

時疾時徐、滅腥去臊除膻たん、必以其勝、無失其理。
調和之事、必以甘酸苦辛鹹。先后多少、其斉甚微、皆有自起。
鼎中之変、精妙微繊、口弗能言、志弗能喩。若射御之微、陰陽之化、四時之数。
故久而不弊、熟而不爛、甘而不濃、酸而不酷、鹹而不滅、辛而不烈、澹而不薄、肥而不腴。

そもそも三種類の食材である水産、肉食、草食動物にはみなそれぞれ特有の臭味があるが、材料に臭味はあるものの、料理が美味しいのにはそれぞれ理由がある。およそ味の根本は水の良し悪しにあり、調味や加熱を駆使する調理においては火の扱い方がかなめとなる。

ある時は短時間の、ある時は長時間の調理を行って、それぞれの臭味を減らし除くのであるが、材料の良いところは残して、その本質を失うことがあってはならない。

調味においては必ず甘酸苦辛鹹かんの五味を調和させることが重要である。どの味を先に加えるか後に加えるか、またその分量と味のバランスは非常に微妙なものであって、材料それぞれに応じて自ずからほどよい加減と言うものがある。

このように加熱と調味によって材料が鍋の中で変化するが、この変化の様は精緻で微妙なものであるから、これを言葉にし、うまく喩えることはできないのだが、それはちょうど微妙な馬の手綱さばきのようなもの、自然が織り成す複雑さ、多彩さと同じであると言うことが出来きよう。

それゆえに料理は長時間加熱しても材料の質を損なわず、柔らかくても崩れず、甘くても濃くはなく、酸っぱくても強烈ではなく、塩辛くても元の味を損なわず、辛くても激しくはなく、淡白でも薄くはなく、濃厚でも脂濃くはないのである。

No.24「羊」―『呂氏春秋』「本味篇」に見る調理の要点その1―

『呂氏春秋』「本味篇」は調理についていくつかの要点を示していますが、その前提となる材料に関して、「特有の臭味がある」と述べている点がそもそも日本料理とは随分異なると言うことができます。日本料理では臭味や癖のない材料を選んで、これをできるだけシンプルに調理し、材料の持ち味を壊さないことを心がけますが、『呂氏春秋』「本味篇」では材料がもともと臭味のある事を前提として、どのように調理して臭味を減らしたらよいのかが語られているからです。

料理の根本は「食材を活かす調理」にありますが、食材が変われば活かし方も変わるのは当然で、臭味や癖のない材料であればシンプルな調理が「食材を活かす調理」となるのですが、臭味や癖の強い材料ではそういう訳にはいかなくなるのです。中国料理はわれわれ日本人から見ると、調理し過ぎて食材を活かしていないように感じられる時がありますが、臭味や癖の強い肉類を調理する伝統の中で中国料理は複雑な調理を発達させて行き、中国料理には中国料理なりの材料の活かし方を追及してきたのだと言うこともできるのです。

シンプルな料理を好む好まないは個人の嗜好なので、日本料理と中国料理のどちらが良いとは言えませんが、中国料理は臭味を除く調理を発展させたので、使用する材料の幅が広く、どのような材料でも調理できると言う長所を持っています。高級料理として知られるフカヒレなども材料としては臭味が強く旨味を持たないものですが、これを美味しい料理に調理する技術は中国料理ならではのものです。また中国料理には健康増進の為に食べるという医食同源の伝統があるため、食材として味に難点があっても健康に良いものであれば積極的に料理に使用しました。中国料理はありとあらゆる材料を使用することで知られており、「四本足で食べないものは椅子とテーブルだけ、空飛ぶもので食べないものは飛行機とヘリコプターだけ」と言われるほどです。実は「二本足で食べないものは親だけ」いう話もあるそうですが、これについてはあまり深く詮索しないでおきましょう。

No.25「羊」―『呂氏春秋』「本味篇」に見る調味の要点その2―

『呂氏春秋』「本味篇」は調味の要点を「必ず甘、酸、苦、辛、鹹かん、(塩味)の五味を調和させること」と述べています。この中の、「鹹かん」は日本人には親しみのない文字ですが、塩味と言う意味で、塩はむろんのこと、醤油や味噌などの塩味全体を表します。日本料理ではこの「鹹かん」に属する味を重視し、例えば刺身を醤油で食べる事は当然のことで、魚の種類に応じて、調味料を変えるということはほとんどしません。これに対し古代中国で盛んに食べられていた「鱠」つまり刺身はその種類に応じて多様な調味料を使用していました。中国ではモンゴル族が支配した元代あたりから生食文化が衰えてゆきましたが、それ以前は肉も魚も生で食べる習慣があり、肉の刺身には生肉を発酵させた「醢かい」という調味料を使用し、魚の刺身は芥子酢で食べています。時代が下ると葱、生姜、楡の実の味噌、山椒、酢、塩、砂糖を混ぜ合わせた「鱠醋」という刺身専用の調味料で食べています。このように同じ刺身でも日本ではシンプルな調味が好まれ、中国では複雑な調味が好まれたという違いがありますが、そこには複雑な調味は素材の持ち味を損ねるという日本料理の考え方と五味調和を理想とする中国料理の考え方の違いが反映しており、この2つの伝統が日本人と中国人の異なる嗜好を作り出したと言うことができます。

中国人がなぜ五味調和を理想としたのかという疑問には陰陽五行思想とそれに基づく健康観が影響していると言うことができるでしょう。五味は五臓と対応して、例えば酸味は肝を養うというように、1つ1つの味がそれぞれの臓器を滋養すると考えるのですが、健康とは五臓が偏りなく働いている状態でありますから、そのために味に偏りがあってはならず、五味は調和していなければならないというと言うのが、五行思想から来る健康観です。また体を温めたり冷やしたりする食品をうまく組み合わせることも健康維持にとって重要であり、こちらは陰陽思想から来る健康観であり、いづれにしても「偏る」ことは健康に害を及ぼすと考えられました。
この「偏らない」という考え方は健康ばかりでなく人の生き方にも関係し、行動や考え方の偏りは聖人が理想とする「中庸」の姿に反するとされました。中国料理が理想とする五味調和はこのように中国人の健康観や人生観とも関係して、料理の世界にもしっかり根を張っているのです。

No.26「羊」―羊頭を懸けて狗肉を売る―

「羊頭を懸けて狗肉を売る」という諺は羊の頭を看板に掲げて、その実、犬の肉を売る、つまり見せかけは立派でも中身がともなわないという意味でよく知られたものですが、この諺には「牛頭を門に懸けて馬肉を内に売る」とか「羊頭を懸けて馬脯を売る」などというバージョンがあって、時代時代で肉の評価に変化があることが見て取れて興味深いものがあります。最も一般的な「羊頭狗肉」は『無門関』という宋代に編纂された禅問答集が出典ですので、宋代では羊肉が高く評価され、犬肉は蔑まれていたことが解りますが、「牛頭馬肉」は春秋時代、「羊頭馬脯」は漢代の諺のようです。

さて宋代の宮廷料理に使用される肉はすべて羊肉であったことはよく知られています。特に仁宗皇帝は羊料理を愛好し、宮中では毎日280頭もの羊が調理されていました。南宋時代に入っても宮廷料理に羊肉が使用されることは変わりなく、孝宗皇帝は「坑羊炮飯」という料理を好んだと伝えられています。料理名から想像するとこの料理は羊を丸ごと1匹蒸し焼きにしたものを細かく切り、ご飯に混ぜた料理で、羊肉の混ぜご飯と言った所ですが、1品の料理に羊1匹を使用のであれば毎日280頭というのもあながち大げさではないのかもしれません。

ただし、当時羊は高価な材料だったと見えて、民間では豚肉が良く食べられていました。当時グルメとして知られていた蘇軾(蘇東坡)は高級官僚であったにもかかわらず、肉の煮物に羊肉を使用せず、価値の低かった豚肉をあえて使用したことから、蘇軾が好んだ肉料理「豚の角煮」は「東坡肉」と命名されて庶民に人気の料理となりました。現在でも代表的な中国料理の1つとして日本人に親しみのある料理です。

「東坡肉」について蘇軾自身は「食猪肉詩」の中で次のように述べています。
 黄州の豚肉は品質が良く、値段は安く糞土のようなもので、金持ちは食べようとしませんが、貧乏人は煮方を知りません、火は穏やかにして、水を少なくし、火加減がほどよければ自ずから美味となります、毎日一碗を食べて、家人は腹を満たしているのですから、あなたに言われることではありません

この詩には真のグルメであるという自負と失意や困窮がないまぜになった複雑な心境が窺えますが、「火は穏やかにして、水を少なくし」と言うくだりは、実際に料理を作らなければ解らないことで、今日でも「東坡肉」を作る際のコツとして伝えられています。

No.27「羊」―満漢全席と全羊席―

中国料理の最高の宴席とされるものに「満漢全席」がありますが、これはもともと清朝の官僚たちが結婚式などの社交の場で食べた料理です。清朝は満州族によって統治された時代ですから、官僚も満州族出身者と漢族出身者に別れていました。その双方が一同に会する宴席では、料理も満州料理と漢族料理を同時に出す必要があり、2つの料理を折衷したものが「満漢席」「満漢全席」と呼ばれるものでした。「満漢全席」の最古のメニューは『揚州画肪録』に記録されていますが、これは乾隆帝が揚州に赴いた際、随行した満族漢族の官僚たちを接待するために揚州の塩商人が催した宴席です。後世、満族の食文化が次第に漢化されてゆくと料理を区別する必要もなくなり、「満漢全席」は中国料理最高級の宴席としてその格式が伝えられてゆきました。

さてこの「満漢全席」は1回の宴席に64品から110品の料理が提供されるという、想像を絶する規模の宴席です。よく昼夜2日間にわたって食べるなどと言われるのですが、それは1回では食べきれないので何回かに分けて食べようという庶民の「もったいない」精神からそうしているだけのことで、本来は1回の宴席に100品近くの料理が出されました。勿論すべての料理を食べることはできませんので、好きな料理だけを少しつまむという程度で、料理のほとんどは残ったまま下げられたというのが実情だったでしょう。今日でも「満漢全席」と銘打った高級宴席が催されることがありますが、清朝ではこれに匹敵する格式を持つ宴席として「全羊席」といわれるものが流行していました。

「全羊席」の記録は『清稗類鈔』や『隨園食単』などに記されていますが、すべての料理に羊のさまざまな部位を使用し、72品とも108品とも言われる料理が出されるというものです。「満漢全席」はすべての料理を異なる素材で作るわけですが、「全羊席」は同じ素材で異なる料理を作るという逆転の発想で考えられたものです。つまり羊のさまざまな部位を異なる調理法、異なる味付けで調理した宴席で、羊以外の材料も用いますが技術的にはこちらの方が高度と言って良いかも知れません。また「満漢全席」は満州族の料理と漢族の料理を折衷したものですが、清朝の「八旗」つまり江戸時代でいえば旗本に相当する高官の中にはモンゴル族も含まれていたので、「全羊席」は回教徒やモンゴル族にとっての「満漢全席」という意味合いがあったと言ってよく、宮廷では回教徒の賓客をもてなす為の料理として発達しました。

No.28「羊」―全羊席の羊料理―

「全羊席」は羊料理を主体とした宴席ですが、高級になればなるほど羊以外の料理が多くなり、すべての料理が羊というわけではありません。おそらく当初は羊だけだったのでしょうが、「満漢全席」の影響を受けて品数が増えてくると、やはり羊だけでは飽きてしまいますし、技術的にも限界がありますから羊以外の料理も入ってくる訳です。手元にラストエンペラーに仕えた最後の宮廷料理人、唐克明氏が著した『全羊菜譜』という料理書がありますが、清朝も末期になると「全羊席」も羊料理が多い「満漢全席」といった様相を呈しており、本来の面影は薄らいでしまったように感じられます。しかし、「全羊席」が作られなくなった今日から見れば貴重な使用ですので、全体の流れを紹介しておこうかと思います。

先ず初めに出される料理は4種類の野菜料理で「竹の子と豌豆の芽の炒め物」などの「清口菜」と呼ばれる料理。次は2種類の甘い料理で「蓮の実の蜜煮」などの「喜味菜」と呼ばれる料理です。これは本格的な料理の前の口休めのようなもので、この後別室で音楽やマージャンなどを楽しみながら1、2時間ほど休憩してから、いよいよ本格的な宴席となります。第2席は「双十件」と呼ばれ、羊料理を主とした20種類の料理で構成され、最後に2種類の点心と一口スープが出されて、再び別室で休憩。休憩が終わると第3席が始まり、これも羊料理を主とした20種類の料理と2種類の点心、一口スープ。その後やはり休憩をはさみ、第4席となります。ここで出される料理は32品で、熊の手などの高級材料が主となる料理です。その後最後のご飯もの、小吃、スープで締めくくられます。

唐克明氏の作る「全羊席」は主菜72品、その他の料理が10数品で、最高の格式ということになり、3回の休憩を挟んで食べられるわけですが、第2席の所要時間40分、第4席の所要時間60分と書かれているところから考えて、料理をじっくり味わうと言うより、料理のほとんどは見るためのものだったように思われます。また開始から終了まで大体6時間から7時間かかる事になり、これだけの時間、客同士は顔をつき合わせているのですから、「全羊席」や「満漢全席」は料理を食べることを目的とすると言うよりは、緊密な社交の機会を提供する1つの場であったと考えてよいのでしょう。

No.29「羊」―「東来順」と「氵刷羊肉」―

「全羊席」によって羊料理の技術は発達しましたが、この料理がごく限られた人々の目を楽しませたのに対し、庶民が愛した羊料理は見た目は素朴ですが、食べて美味しく体を温めて精のつく実質的な料理でした。その代表は今日の北京っ子も大好きな「氵刷羊肉」と「烤羊肉」と言ってよいでしょう。

「氵刷羊肉」は「羊のシャブシャブ」のことで、「氵刷」とは「すすぎ洗いする」という意味を持ち、肉をお湯の中ですすぐように揺らして火を通すことを表します。清朝の宮廷料理でも冬の料理としてよく食べられており、「羊肉火鍋」と称されていましたが、羊に限らず豚肉の「白肉鍋」、魚と菊の花の「菊花魚鍋」、鶏や魚、豚肉、羊肉などを盛り合わせた「生火鍋」などさまざまな種類がありました。清の康煕帝や乾隆帝が老人を中国全土から招いてその長寿を祝った「千叟宴」は少なくても1000人、多い時で5000人の規模となったと言われますが、この宴席で出された料理はこの「火鍋」といわれる鍋料理でした。

「火鍋」とは中央に煙突のついた独特の鍋で、日本のシャブシャブ店でもお馴染みのものです。ただし日本の場合はガスコンロの上に置いて使うことが多いために、煙突は形ばかりですが、本場北京の「火鍋」は煙突が太くできており、長さも40cm位で見た目は不格好なのですが、この中に炭をたっぷり入れることができるために火力も強く、実利的な鍋と言うことができます。

私が初めて北京を訪れたのは、文革が終結して間もない1977年のことでしたが、この時、北京飯店で「氵刷羊肉」を食べた記憶があります。ただその時、私はまだ大学生で料理のことはあまり解らず、ただ物珍しいという印象が残っているだけです。その後、北京で食べた「氵刷羊肉」には色々な思い出があるのですが、最も印象深いのは、1985年に日本中国料理調理士会の一員として北京を訪れた際に「東来順」の旧店で食べた「氵刷羊肉」でした。当時、私はまだ20代の駆け出しの料理人で、本場の料理に興奮していたのだと思います。その頃は「東来順」も王府井の中ほどにあって堂々たる木造建築の風格ある料理屋でした。2階に上がると足元も見えないほど暗い広々としたフロアーにモクモクと白い湯気を立ち上げる「火鍋」が大迫力と存在感を放っていました。中国人の客たちはまるで喧嘩かと思えるほどの大声で談笑しあい、その中を進むと「白酒」の強烈な匂いが鼻について、20代の私は全く圧倒されたものでした。これが私の北京なのですが、今では近代化されて北京も東京もあまり変わらなくなってしまいました。王府井はその後再開発されて「東来順」も新しい商業ビルの1画に移ってしまい、近代的な明るいフロアーに以前よりは随分華やかになった客達の様子を見ると、ここは香港なのかと錯覚するくらいです。

No.30「羊」―庶民の羊料理「氵刷羊肉」―

さて「東来順」旧店の「氵刷羊肉」の味はどうだったのか?実のところ食べつけないこともあって、美味しいというよりビックリしたというのが本当のところだったように思います。シャブシャブは肉の良し悪しもさることながら、やはり「付けだれ」が好みを左右すると思いますが、この意味で北京伝統の「付けだれ」は我々日本人にとってやはり特殊なものです。また今日でもそうなのですが、出来上がった「付けだれ」があるわけではなく、何種類もの調味料が1つ1つテーブルに並べられて、客は各自の好みで調味料を合わせるというスタイルで提供されるため、どの調味料をどの分量合わせたらよいのか解らず、本当にこれでよいのかという半信半疑で食べていたということもあったように思います。

「付けだれ」の調味料には、練胡麻(芝麻醤)、紹興酒、豆腐の発酵調味料(醤豆腐)、韮の花の塩漬け(醃韮菜花)、醤油、ラー油(辣椒油)、海老の発酵調味料(蝦油)、米酢(米醋)、葱のみじん切り(葱花)、中国パセリ(香菜)が出されます。これを各自で合わせて自分のタレを作るのですが、醤豆腐、醃韮菜花、醤油、蝦油はすべて塩味の調味料で、ここに酢の酸味とラー油の辛味を加えるというのが基本となる味です。さらに芝麻醤が加わる事でタレにコクがうまれ、紹興酒は濃すぎる味を薄めるために用います。このように甘味のない塩味を主としたシンプルな調味なのですが、塩味の調味料に各種の発酵調味料を加えることで、よく言えば奥行きのある、悪く言えば複雑で癖のあるタレが出来上がるわけです。やはりこの点が日本人には馴染みのない味となる訳ですが、北京っ子にとってみれば醤豆腐、醃韮菜花、蝦油の入らないタレは物足らない味と感じられるのでしょう。また牛肉のシャブシャブと違って羊肉の場合はこのようにパンチのあるタレの方が合うのかもしれませんし、北京の乾燥した気候が複雑な味を欲するのかもしれません。

その後、私は北京で料理の研修を行なう事になり、北京の味にもすっかり慣れて、「氵刷羊肉」が大好きになりましたが、逆に日本に長く滞在している北京の友人は「氵刷羊肉」を日本で食べても美味しくないとこぼしていたことが印象的です。彼は北京と同じ調味料を作って自宅で食べたそうですが、味が違うというのです。確かに、乾燥した冷たい風が吹きさらす北京の冬と湿潤で温和な気候の東京とでは同じ料理でも味わいが異なるのは事実でしょう。その土地土地に根付いた食の嗜好はやはりその土地ならではの気候風土と深く関係するようです。

No.31「羊」―庶民の羊料理「烤羊肉」―

気候が肌寒くなる秋から冬にかけてが「氵刷羊肉」の美味しい季節ですが、夏場の羊料理と言えば「烤羊肉」でしょう。「烤羊肉」とは日本の「ジンギスカン」に似た料理で、焼き方やタレの味が日本とは異なるのですが、夏の北海道で「ジンギスカン」が美味しく感じられるように、香ばしい匂いが食欲をそそると言う点で「烤羊肉」も夏を代表する羊料理と言ってよいでしょう。

「烤羊肉」の名店「烤肉季」は100年以上の歴史を持つ料理屋ですが、当初は蓮の名所として知られる「什刹海」に夏場だけ営業した屋台として始まったと言われています。現在では「烤羊肉」の他にもさまざまな羊料理や回教徒料理を提供していますが、「烤羊肉」をメインとした宴席では一般の料理が提供された後、別室に移ってお客自らが「烤羊肉」を焼いて食べるという演出が好評です。

「烤羊肉」を焼く特性の炉「炙子」は約3cm幅の鉄棒を敷き詰めた直径1メートル程度の円形をしており、鉄棒と鉄棒の間にわずかな隙間があるので、下に薪をくべた時に炎がこの隙間から洩れ、鉄板焼きと直火焼きを兼ねたような作りになっています。この「炙子」をテーブルの中央に置いて、お客は自分で肉を焼くわけですが、肉には醤油、蝦油、胡麻油、酒、生姜汁などで下味がついています。さていよいよ肉を焼く段になると、「炙子」に羊の脂肪を塗り、葱の輪切りを載せてこの上に羊肉を置き、長さ50cmもあろうかという長い箸で返しながら焼き、最後に香菜をたっぷり振りかけてさっと焼いて仕上げます。このように客は自分で肉を焼くのですが、これが不思議と楽しく、使い慣れない箸でみんな大喜びして焼くわけです。

そしてこの「烤羊肉」に欠かせないのが「芝麻醤焼餅」と呼ばれる小麦粉食品です。表面に胡麻をまぶした中華風パイと言った所ですが、バターの代わりに練り胡麻を使用するので、層になってはいるものの軽い食感のパイとは異なり、食べがいのあるどっしりとしたものです。この「芝麻醤焼餅」をほおばりながら、「糖蒜」と呼ばれる砂糖漬けのニンニクをかじり、「烤羊肉」を食べるのが通というものらしく、地元の北京っ子達と長い箸でキャーキャー騒ぎながら、香ばしい「烤羊肉」を堪能した楽しい思い出が蘇ります。

No.32「羊」―羊肉の功能と薬膳料理―

『飲膳正要』は元の時代、宮廷医であった忽思慧が著した薬膳に関する著作ですが、ここには羊を使用した薬膳料理が数多く掲載されています。モンゴル人は羊を主食とするため、羊料理が多いのはあたり前といえばあたり前なのですが、その代表的なものを1例紹介しておきましょう。

「羊皮麺」 消化を助け、体力を増強する効果を持つ羊の皮2枚を柔らかくなるまで煮て、麺のように細く切る。ボイルした羊の舌2個、羊の腎臓4個、キノコ1斤、生姜の酒糟漬け4両はみな爪の大きさの薄切りにしておく。羊の肉からとったスープに材料をすべて加え、胡椒1両、塩、酢で調味する。

この料理は羊の皮を細く切って麺に見立てたもので、かなり濃厚な料理ですが、胡椒を利かせているので胃にもたれるということもなく、体を温め、血行を良くして元気をつける営養満点の薬膳料理と言うことができると思います。ちなみに同じ羊でも部位によって功能が異なるので、下にその功能を列挙しておきましょう。

羊の肉
 胃腸や腎を温め、内蔵機能を高めて疲れを取る
羊の皮
 虚弱な体質を改善し、血行を良くし、腫れものを除く
羊の腎臓
 腎を養い精力を高める
羊のレバー
 造血作用を持ち、肝を養い、視力を回復させる
羊の胃
 消化を助け、疲れを取る
羊の肺
 肺を養い、咳を止めて、むくみを取る
羊の脳
 虚弱な体質を改善し、皮膚を潤す

スッポンは『詩経』にも詠われているように古代からご馳走とされていた食材です。周代の制度や儀礼を記した『周礼』にもスッポンを王室に献上する特別職として「鱉人」という官職があったことが記録されていますが、スッポンの美味をよく伝えるエピソードが『春秋左氏伝』に載っているので紹介しておきましょう。

鄭の貴族、子公と子家は鄭王霊公に拝謁するために宮殿に赴きましたが、そこでたまたま霊公に献上される大きなスッポンを見て子公は食指を思わず動かし、「いつの日か私が王になったならば、このようなスッポンのご馳走を必ず食べてやるぞ」と子家に語るのでした。さて殿中に入ると料理人がスッポンを調理しようとしているではありませんか、二人はスッポンのご馳走が食べられると顔を見合わせて笑みを浮かべたのです。これを見ていた霊公が何を笑っているのか子家に尋ねたところ、事情を聞いて「私が王になったら」とは何事かとにわかに気分を害し、スッポン料理をふるまう宴席に子公を呼びつけながら子公には与えず、満座のなかで恥をかかせました。子公はおおいに怒り、指をスッポンスープに突っ込んでこれを嘗めて出て行ってしまいましたが、この無礼な行動に霊公はまたもや激怒し、子公を殺してしまおうと考えました。ところが子公はこれを察知し、この年の夏、逆に霊公を暗殺してしまいます

この話は「食指が動く」という諺の出典ともなったものですが、大好物の料理を目の前に出しておいて食べさせない為に殺されてしまうという、食べ物の恨みは恐ろしい実例でもあります。このような話が伝えられるほどスッポンは古代からご馳走として有名な食材でありました。特にスッポンの甲羅の周りについている柔らかいエンガワは「君辺」と呼ばれ、大型スッポンのエンガワ乾燥品は希少材料「八珍」の1つとされています。

No.15「スッポン」―さまざまな調理法―

さて古代からご馳走とされてきたスッポンはどのように調理されていたのでしょうか?
一番古い例は『詩経』の「炰鱉」で、これはスッポンの蒸し焼き料理です。また『礼記』や『楚辞』にはスッポンの煮物料理が記されており、もちろん『春秋左氏伝』の話しにもあったようにスッポンスープは常に人気の料理で、歴代の料理書に記載されています。また宋代になると他の材料でスッポンに見立てたもどき料理「假黿魚」が登場し、しかも皇帝の誕生日の宴会に出された宮廷料理として記録されています。スッポンが美味しいご馳走であるのはあたり前のことですが、味も見かけもスッポンと変わらないのに、実はスッポンを使用しないで作りましたと言うところに技術の高さとグルメを喜ばせる趣向があったわけです。どのようにこれを作ったのかは記されていませんが、元代の料理書『居家必用事類全集』には「假鱉羹」(スッポンのもどきスープ)の作り方が書かれています。これによると、鶏肉をスッポンの肉に見立て、黒羊の頭をスッポンのエンガワに見立て、鴨の卵と澱粉を練ったものをスッポンの卵に見立て、キクラゲと板春雨を底に敷いて、熱いスープをかけ、生姜の糸切りを添えるという作り方をしました。実際にスッポンを使うより手間がかかるように思われますが、このようにして料理で遊んだ訳です。

同じように手間をかけた風変わりなものとして「遍地錦装鱉」という料理が『清異録』という書物の中に登場します。これは唐の時代、偉巨源という人物が尚書令を拝命した際に皇帝を自宅に招いて献上した料理の1つで、「羊脂、鴨卵脂副」という注が付いている事から、羊の脂肪などさまざまな具材を色とりどりに散らした「スッポンの茶碗蒸し」であると想像されます。今日の中国料理にこのような料理は存在しませんが、スッポンはスープ、煮込み料理はもちろんの事、蒸し物、蒸し焼き、炒め物、揚げ物、オコワなど、さまざまな料理に調理されてお客様を楽しませています。

No.16「スッポン」―古月のスッポン鍋― 

中国料理「古月」では開店当初からスッポン料理を提供していましたが、私がまだ駆け出しの頃、お客様から“京都の「大市」でスッポン鍋を食べたことがあるか”と尋ねられ、“ありません”とお答えしたところ、お客様がさっそく「大市」をご予約してくださり、食べに行ったという思い出があります。「大市」のスッポン鍋は他に真似ができものではありませんが、私なりに感じるところがあり、その後、試行錯誤を重ねて今日の「古月特性スッポン鍋」が完成した訳です。古月のスッポン鍋はスープが澄んで芳醇な中にさっぱりとした味わいがある事、スッポンを煮すぎないようにし、旨味と歯ごたえを残す事に注意をはらって調理しています。そのために前もって上等なスッポンスープを作っておき、この中でスッポンの切り身をさっと湯がいて仕上げています。一般の中国料理ではスッポンをじっくり煮込んで旨味をスープに引き出すように調理しますが、このような作り方ではスープだけが美味しく仕上がり、スッポン自体の旨味は失われてしまいます。また、一般的にはスープを濁らさないように弱火で調理しますが、これでは臭味が残り美味しくありません。あくまでも強火で調理して出来上がりは澄んでいるという点が技術的に難しいところなのです。古月のスッポン鍋は中国料理の技術を駆使したもので、「大市」とは異なるのですが、その精神のようなものを教えていただいたと思っています。

それにしても、若い頃にお客様から教えていただいたことが、今日の基礎となっているとつくづく感じます。褒めていただいたり、お叱りを頂戴したりしながら料理人は育っていくわけですけれど、お客様もまた料理人を育てようとされていたように思われます。インターネットで料理評論が盛んな時代となりましたが、昔のような料理人とお客様の心の交流が返って薄らいでいるように思われてなりません。

中国料理の高級材料の1つに海参(干しナマコ)があります。日本人は生のナマコを酢の物で食べることが多いので、コリコリ、シコシコした歯ごたえを誰しも想像しますが、中国料理のナマコは乾物を戻して使用するので、柔らかくモチモチした歯ごたえ、ツルツルした滑らかな舌触りが特徴です。また海参は中国で人気が高く、価格もフカヒレと同じか、むしろ海参の方が高いくらいなので、ナマコ料理とフカヒレ料理のどちらかをチョイスしていただくと、中国人のお客様はほぼ100%、ナマコをチョイスされます。特にここ数年の高騰ぶりは異常で、私が修行していた時代に比べて5倍以上の価格に跳ね上がりました。

もともと干しナマコは日本の特産品で「煎い海鼠りこ」と呼ばれ、江戸時代の輸出品「俵物三品」の1つであったことはよく知られています。矢野憲一著『ものと人間の文化史62鮑』によれば、“フカヒレは江戸の元禄時代から中国に輸出されていたが、これに加えて明和元年(1764年)からは干し鮑と干しナマコが加わった”とのことです。この頃の中国は清朝、乾隆帝の時代にあたり、当時の食経『隨園食単』にも燕窩(ツバメの巣)、魚翅(フカヒレ)、鰒魚(干し鮑)と並んで、堂々第2の位置に海参(干しナマコ)が記載されています。また成立年代は不確かですが、乾隆期の編纂とされている『調鼎集』には「胡蝶海参」「炒海参絲」「陳糟燜海参」「蝦仁瓤海参粥」「猪舌根焼海参」「野鶏海参羹」「斑魚肝焼海参」「木耳煨海参」などの料理がツバメの巣、フカヒレ、鮑料理などとともに記載されており、海参が高級食材として認知され、その調理法も発達していたことが解ります。

さて、それ以前はどうだったかというと、中国でも生のナマコは古くから食されていたようです。兪為潔氏は『中国食料史』の中で三国時代に著された『臨海水土異物誌』を引いて、“ナマコはこの頃、「土肉」と呼ばれ、焼いて食べられていた。”と述べておられますが、焼いて食べるのであるなら生のナマコと言うことになります。けれどもその後、ナマコに関する記載は見当たらず、明代になってさまざまな文献に突如として現れはじめます。その代表的なものは、明の万暦帝に仕えた太監の回想を記録した『明宮史』で、“万暦帝は焼き蛤、活け海老の炒め、蛙のもも肉、若鶏の胸肉を好まれたが、海参、鮑、フカヒレ、肥えた鶏、豚のアキレス腱を一緒に煮込んだ料理を「三事」と名付け、常に喜んで食されていた。”という逸話です。おそらく「三事」とは海参、鮑、フカヒレの三種を言うのでしょうが、万暦帝が好んだという事で海参の評価が一気に高まり、以来、海参は高級食材の地位を確立するのです。

No.10「海参」―海参の薬効―

海参が珍味としてだけではなく、その薬用効果に注目が集ったのも明代からのことです。『五雑俎』には、“海参は遼東半島の海浜に産し、一名を「海男子」と言う。その形は勃起した男性器のようで、貽貝と対をなすものである。その効能は体を温め、薬効が朝鮮人参に匹敵するため、海参と名づけられた。”と海参の名の由来が述べられています。また『食物本草』にも“海参は東南海中に産し、形は蚕のようで、色は黒く、表面に突起がある。ある種類は五六寸、表裏ともに清浄で、味は極めて鮮美、体を滋養する効能があり、食品の中で最も珍しいものである。略、今、北方の人は驢馬の陰茎で贋物を作る者がいるが、味はほとんど同じものの、形がわずかに偏平なものがこれである。”とあって、贋物が作られるほど高価な食材であったことが解ります。

海参という名称の由来は「海の朝鮮人参」から来るものでが、実際にナマコには朝鮮人参と同じ成分が含まれていると言われています。本川達雄等著『ナマコガイドブック』の解説によると、朝鮮人参の主成分であるサポニンを海参も持つており、動物でこれを持つものは海参とヒトデ、海綿だけとのこと。科学的な知識が無かった時代によくぞ朝鮮人参とナマコの共通性を認識できたと驚愕します。『中薬大辞典』では海参の効能を「補腎益精」「養血潤燥」「止血」と記載していますが、「補腎益精」とは精をつけて老化や虚弱体質を改善するという意味を持ち、「養血潤燥」とは血液を増やして体を滋養することを言います。ですから海参は虚弱体質の人や老人の健康増進、女性の美容に適した食材といえます。また中国ではガンに良い食品とも言われており、かつて中国の通産省(商業部)に勤めていた北京の友人なども私に、“知人が海参を毎日食べてガンを治した”とまじめに話すのを聞いて、海参が中国人に人気なのは、美味しさばかりでなく、その効能が高く評価されているのだと痛感しました。

No.11「海参」―海参の調理―

さて海参が朝鮮人参と同じ成分を含むという事実は、漢方の言い伝えが決して非科学的なものとは限らないという1つの好例ですが、最近では漢方薬の薬理効果が科学的に研究され、いろいろなことが解ってきました。『中薬大辞典』には海参の科学的な薬理効果の記載があり、海参に腫瘍を抑制する効果が見られると書かれています。つまり、“海参を毎日たべてガンを治した”という話もあながち眉唾ではないということになります。ただし、海参を薬として調理して食べるのと料理として一般的な方法で調理して食べるのでは、かなり異なるのではないかと思っています。

『中薬大辞典』の薬としての調理例を見ると、“海参を水に漬けて柔らかくした後、他の材料と煮込む”と書かれていますが、このような方法で調理すれば薬効成分は残るでしょうが、同時に生臭さも残って、料理として美味しくないものになると想像されます。一般の料理では何度も水を替えながら海参を煮て戻し、生臭みを除きながら、軟らかくなるまで下処理しますが、この時点でおそらく薬効成分もずいぶん失われるのではないかと思われます。ここで、海参の戻し方を紹介しておきましょう。
「海参」の戻し方

  • 海参は水洗いして表面の砂を落とし、水をたっぷり張った鍋に入れて加熱し、沸騰直前で火を止めて、一晩漬け冷ます。
  • ①を2~3回繰り返すと少し柔らかくなるので、包丁で海参の腹を割り、中を掃除して水洗いした後、再び水をたっぷり張った鍋に入れて加熱し、沸騰直前で火を止めて、一晩漬け冷ます。
  • 外側の皮をぺティーナイフでこそげ落としながら、同様にして一晩漬け冷ますことを繰り返す。
  • 大きさが2~3倍程度に戻ったら、冷水に漬けて冷蔵庫で保存する。

このように柔らかく戻した海参は更に上質なスープで旨味を含ませ、味付けをし、トロミ付けをして始めて美味しい料理となるのです。

No.12「海参」-海参の種類-

海参にはさまざまな種類があり、それに応じて評価もまちまちです。中国では日本産のマナマコの乾物が最上級品とされており、刺があるため「刺参」と呼ばれています。これに対して刺のないナマコは一括して「光参」と呼ばれ、評価も低いのですが、刺のないナマコの中でも「白石参」という種類だけは例外としています。「白石参」は「猪婆参」とも言われ、体長50㎝程の巨大なナマコで、体表に白い砂をつけていることから、「白石参」の名があり、主にインドネシア産が香港に輸入されています。日本に生息しないために和名はありませんが、これに最も近いのはイシナマコ「烏石参」で、「白石参」に似て、表面に黒い模様があるのが特徴です。「白石参」は肉が厚く滑らかな歯ざわりを特色とし、「刺参」のコリコリした食感と双璧をなして、香港では評価が分かれるところですが、刺のないナマコの中では最高級品と言うことができるでしょう。

このほかに評価の高いナマコは細かい刺がビッシリついているバイカセン「梅花参」で「刺参」より大きいのですが、歯ざわりが劣るために評価は下がります。「白石参」「刺参」「梅花参」の3種類が高級ナマコの代表格で、この外にトゲクリイロナマコ「大烏参」、ハネジナマコ「禿参」、オオクリイロナマコ「小烏参」、クリイロナマコ「沙参」、ヨコスジオオナマコ「玉参」、ジャノメナマコ「赤斑参」、クロナマコ「黒虫参」、シカクナマコ「四方参」、オニイボナマコ「黄肉参」、チズナマコ「赤斑参」、ジャノメナマコ「蛇目参」、ニセクロナマコ「虫龍参」、ニセジャノメナマコ「大赤参」、キンコ「瓜参、海茄子」などがあります。この他にもたくさんの種類があるのですが、和名と対比できるのはこの程度で、日本では食べない種類のナマコでも中国料理では大いに活用されている訳です。このことからも、中国人のナマコ好きがよく理解できると思います。

No.13「海参」―海参料理―

海参料理の代表格といえば、上海料理の「蝦籽海参」、北京料理の「葱焼海参」が二大海参料理といえるでしょう。「蝦籽」とは海老の卵を乾燥させた一種の旨味調味料で、江南地方の料理に欠かせないものです。「蝦籽海参」は上質のスープで煮込んだ海参に醤油、砂糖、紹興酒で味付けし、さらに「蝦籽」を加えて独特の風味と旨味を補い、水溶き片栗でトロミ付ける料理です。海参の柔らかく滑らかな食感とトロリとしたタレの豊かな味わいが口いっぱいに広がって、想像しただけでも幸せになるのですが、これと好対照なのが北京料理の「葱焼海参」です。上海料理にも同名の料理がありますが、北京料理のそれは海参のシコシコした歯ごたえを残し、スッキリした醤油味で砂糖はほとんど加えず、タレもぐっと煮詰めて海参にまとわせ、最後に山椒油で香付けする点に特色を持ちます。上海料理に比べてこちらはメリハリのある爽快な味わいの中に深い味滋味があって、私としては甲乙つけがたいのですが、どちらをよしとするかは人それぞれでしょう。

ところで広東料理や四川料理にも特色ある海参料理がありますが、やはりそれぞれ独自の特徴をもっています。広東料理の「蝦籽扒海参」は材料こそ上海料理の「蝦籽海参」と同じですが、作り方がいかにも広東的なものに変化します。広東料理では先ず海参を老鶏、スペアーリブ、中国ハムなどとともに土鍋で煮込むか蒸しておき、これを皿に盛りつけた後、上等なスープに塩とオイスターソース、蝦籽を加えて味を調え、たまり醤油で色付けしてから水溶き片栗でトロミ付けて、このタレを海参に掛けて仕上げます。海参を煮込んだ煮汁を使用しないので、サッパリとした中に豊かな旨味を持ち、つややかな色合いが美しい上品な仕上がりとなります。これと対称的なのが四川料理の「酸辣海参」で、濃厚なスープを使用して海参をじっくり煮込み、塩、胡椒で味付けた後、強火にして煮汁を煮詰め、最後に酢を加えて仕上げるというものです。柔らかな海参に濃縮した旨味と爽やかな酸味と辛味が加わり、濃厚でありながらしつこさを感じさせない四川料理らしい調理法です。このように中国各地の海参料理にはその土地土地の特徴が現れて、特徴ある料理の数々を生み出しています。

苦瓜は近年人気が高まり、日本の食卓に一年中見かけられる野菜となりました。香港の料理店では苦瓜を涼瓜と呼んでいますが、香港の涼瓜は日本の苦瓜に比べてかなり色が白く、表面の凹凸も粗く、苦味も少ないという特徴があり、日本とは品種が異なるようです。また文献には錦茘枝、金茘枝、癩葡萄、癩瓜、紅羊、菩提瓜などの名称が紹介されていますが、明代以前の文献には現われないことから、苦瓜は明代に東南アジアから中国にもたらされたものと考えられています。明代に著された『救荒本草』は飢饉の時に飢えをしのぐために食べる雑草などを記したものですが、この中に苦瓜の記載があります。
“錦茘枝、または癩葡萄とも言われる。人家の垣根に多く植えられ、茎の長さは七、八尺、茎には毛がある。葉は野葡萄に似て花が多く咲き、葉元には細い糸のような蔓が生じる。花は五弁で黄色、実は鶏の卵ほどの大きさで、先が尖り、シワ状の模様があるが、それは茘枝を大きくしたものに似ている。未成熟のうちは青く、熟すれば黄色くなり、内側に赤いワタがあって、味は甘い。食べ方は黄色く熟したものを採って、中のワタを食べる”

錦茘枝という名称はその形が茘枝に似ているところから名付けられたものですが、卵ほどの大きさがいかにも野生種の雰囲気を伝えています。また食べ方もワタを食べるとあって、飢饉のときに食べる野草の1種とみなされていたことが解ります。これが明の李時珍が著した『本草網目』になると、“苦瓜とはその苦い味をもって名付けられた。略、原産は南蛮であるが、福建や広東の人は皆これを植えている。略、南方の人は青い皮を肉と煮たり、塩や味噌で漬け込んで食べるが、味は苦く、渋く、青臭さがある”と述べられており、南方では野菜として一般的に食べられていたこと、また李時珍自身はその味を好まなかったことなどが推察されます。確かに苦瓜を初めて食べて美味しいと感じる人は少ないと思いますし、私も確か見習いの頃に先輩が作った苦瓜の味噌炒めを始めて食べて、ただ苦いだけの印象しか記憶していません。ところがその後、ある経験をしてから私にとって苦瓜は夏に欠かせない食べ物となりました。

No.6「苦瓜」―夏の養生食―

私が六本木四川飯店での修行を終えた頃、ある陶芸家から中国旅行のお誘いを受けました。というのもちょうどその頃、河南省で宋代の焼き物として最高峰とされる汝官窯の窯跡が発掘されたらしいという情報が入り、さっそく見に行こうということになったからです。我々は夏の炎天下をあちこち移動し、さまざまな窯跡を見て回りましたが、結局、汝官窯の窯跡は見ることがかなわず、香港を経由して台湾から日本に帰国しようという時に、重なった疲労と暑さで体調を崩してしまいました。食欲は全くなく、吐き気とだるさで完全に暑気あたりを起していた時に、たまたま台湾料理の苦瓜とスペアーリブのスープを食べたのですが、ふだんは美味しいと感じられなかった苦瓜が、その時はなぜか非常に美味しく感じられ、しかも次の日、体調が元通りに回復したのには私自身驚きでした。以来、夏になると夏バテ防止に苦瓜とスペアーリブのスープを作るのが我が家の習慣になり、以来その苦い味がむしろ美味しく感じられるのが不思議です。何を美味しいと感じるかは人によってさまざまですが、体が要求するものが美味しいと感じられることは、人体そのものが自然治癒力を持ち合わせている証拠であるように思われます。野生動物が誰に教わるということなしに、薬草のような草を食べて病気を治すことが知られていますが、人間も同じ動物としてこのような能力を持っているのでしょう。そこで我が家の苦瓜スープの作り方を紹介しておきましょう。

「苦瓜炖排骨」(苦瓜とスペアーリブのスープ)
材料 苦瓜1本、スペアーリブ200g、生姜1片、紹興酒適量
作り方

  • 苦瓜は半分にしてワタと種を除いておく。
  • スペアーリブを一口大に切り、沸騰したお湯に入れて、アクを除き、弱火にした後、生姜、紹興酒を加えて1時間ほど煮込む。
  • ②に苦瓜を加えて弱火にし、蓋をして30分ほど煮込む。
  • 最後に塩、胡椒で味を調える。

No.7「苦瓜」―苦瓜の効能―

「医食同源」という言葉からも知られるように、食品にも漢方薬と同じような性質や効能があると古くから考えられており、「本草書」といわれる歴代の薬物辞典には食品も漢方薬と同列に扱われて記載されています。また病気を治療する場合でも先ずは食材で治療し、それで効果が現われないときに初めて漢方薬を使用するという原則が確立していました。

「本草書」には食材や漢方薬について次のような記載がされています。
1「四気」体を温めたり冷やしたりする4つの性質
2「五味」食材や漢方薬が持っている特色を5つの味で表す
3「帰経」どの経絡、臓器に働くかを表す
4「功用」効能
5「主治」どのような病気に有効なのかを表す
6「宜忌」使用してはならない注意点
7「選方」実際の使用例
これから見ても解るように、漢方は科学的な立証という点では劣っていますが、使用経験の積み重
ねという意味では詳細なデータを蓄積していると言ってよいと思います。

苦瓜について見ると、四気は「寒」、五味は「苦」「淡」、帰経は「心、脾、肺」、功用は「祛暑滌熱」「明目」「解毒」、主治は「暑熱煩渇」「消渇」「赤眼疼痛」「痢疾」とされています。功用の「祛暑滌熱」とは体の熱を冷まし、夏バテや体の火照りなどを改善することを言っており、苦瓜は夏の健康食品として優れた食材といえます。また主治の「消渇」とは糖尿病の漢方名称です。糖尿病は春秋戦国時代に著された『黄帝内経』の中に「消痺」という言葉で記載されており、よく食べても痩せて(消)、喉が渇くことから「消渇」という病名が生まれました。そしてその原因も“肥美な飲食によって病を発する”とされているところを見ると、明らかに今日の糖尿病であることがわかります。苦瓜には血糖を下げる薬理効果が科学的に証明されていますから、苦瓜料理は糖尿病に有益な事は間違いないと思います。ただし、あまり肉材料を加えすぎると逆効果になりますので、その場合は和え物にするなど、肉の使用を控えた料理にするとよいでしょう。また注意事項として胃腸が弱く冷え腹の傾向にある人は既存症を悪化させる可能性があり、苦瓜の成分には子宮筋を収縮させる働きがって流産を招く恐れがあることから、妊娠中は苦瓜を食べない方がよいと言われています。

No.8「苦瓜」―苦瓜料理―

さて苦瓜料理は他の野菜に比べるとそんなに種類があるわけではありませんが、中国南部を中心に各地で食べられています。一般的には苦瓜のワタを除いてこの中にひき肉などを詰め、煎り焼く、揚げる、蒸すなどして加熱する料理、鶏肉や牛肉、豚の胃袋などと炒める料理、魚や肉と一緒に煮込む料理、肉材料とともに煮てスープにする料理に分類することができます。中でも私にとって最も印象深いものはかつて香港で食べた「涼瓜(火文)三黎」という料理です。これは苦瓜と広東で三黎と呼ばれる鰣魚を豆豉風味の味付けで蒸し煮(火文)にした料理で、鰣魚料理としてもよく知られているものです。

鰣魚はニシン科の回遊魚で、産卵のために4~6月に河を遡上するため、揚子江流域の鎮江や富春江などの名産地が古くから名高く、宮廷に献上される高級な魚でした。『中国食文化事典』によれば、“中国では、初夏の最高のご馳走で、日本の初鰹と同様、これを食べて季節を知る”と解説されていますが、近年はほぼ壊滅状態でほとんど遡上せず、5,6年前に数匹捕獲されたという話を上海で聞いたことがあります。料理としては蒸し魚にするのが最も一般的で、その味は柔らかく上品ですが、わずかにニシンに似た香があり、小骨が多い魚です。また鱗の下が最も脂が乗って美味しいことから、鱗を落とさずに蒸すのが決まりになっている珍しい魚でもあります。

さて私が食べた「涼瓜(火文)三黎」は遡上する前に海で捕獲した鰣魚を使用した料理でしたが、苦瓜のほろ苦さと豆豉の濃厚な風味、鰣魚特有の脂が相まって、苦瓜料理の中でも別格といってよいものでした。しかし一緒にこの料理を食べた子供たちにはいたって不人気で、私が鰣魚の薀蓄をいくら語っても、“骨が多いし、苦くて美味しくない”という惨憺たるものでした。子供の舌は敏感で意見も率直ですから、私の作った料理は極力子供に味見させて意見を聞くのですが、若者言葉で“普通においしいい”と言われると褒められているのか、けなされているのか、“普通に意味不明”と言いたくもなる今日この頃です。

さて唐代からの伝統を受け継いだ七夕の瓜彫刻は時代とともに次第に廃れて行きましたが、清代になると中秋節に西瓜を供える風習が生まれ、この西瓜をぼんぼりの形に彫刻する「西瓜灯」が作られるようになって、この技術が継承されました。

日本で満月を愛でる行事といえば中秋節ということになりますが、中国では新年に始めて迎える満月を祝う元宵節が中秋節とともに重要な節日となっていました。今日ではこの風習もあまり見られなくなってしまいましたが、元宵節になると名家、豪商は競い合って豪華なぼんぼりを家の前に飾り、また花火があげられて多くの見物人でたいそう賑わったと記録されています。元宵節が別名「灯節」と呼ばれるのはそのためで、「灯節」にぼんぼりを飾る風習が中秋節の「西瓜灯」を生み出したのです。

西瓜は表面の緑、その下の薄緑や白、果肉の赤と彫り進むにしたがって色が変化するために複雑で美しい模様を彫ることができ、固すぎもせず柔らかすぎもしない食品彫刻に適した材料です。このため「西瓜灯」の彫刻技術は発達してゆきましたが、この技術が今日の冬瓜料理に応用されて、彫刻した冬瓜を器とする「冬瓜盅」として現在の中国料理に活かされることとなりました。また西瓜に詰め物をして加熱して食べるという清朝の宮廷料理も今日の「冬瓜盅」の基礎となりました。このように技術や料理は長い年月をかけて徐々に変化しながら今日の中国料理に継承されていることを「冬瓜盅」は物語っています。

さて高級宴席ともなれば「冬瓜盅」に龍やおめでたい文字を彫刻して豪華さを演出することを皆さんもご存知かと思います。冬瓜は高価な野菜ではありませんが、その形が器や彫刻に適していることから、料理人の腕次第で高級宴席の一品にすることができるのです。特に揚州は冬瓜彫刻の技術の高さに定評があり、名人ともなれば自由自在に模様を彫るばかりでなく、まるで飛び出す絵本のように立体的に彫刻してその高い技術を競い合っています。この冬瓜彫刻の来歴は七夕に瓜を供える風習に端を発します。

南北朝時代の歳時記『荊楚歳時記』には七夕の日に牽牛織女の星に裁縫の上達を願う「乞巧」の風習が記されたおり、庭に縁台を設けて酒の肴と瓜を並べたと述べられています。守屋美都雄氏の注釈には『開元天宝遺事』を引いて、玄宗皇帝と楊貴妃が華清宮で牽牛織女の星に願をかけた際、庭に「瓜花、酒饌」を並べて祈った例を挙げておられますが、この「瓜花」が瓜彫刻のことと考えられます。

宋代の筆記『東京夢華録』には“また瓜に彫刻をして色々な形にしたものを「花瓜」という。略 富貴の家では庭に美しい祭壇を作り、一対の人形、花瓜、酒炙、筆硯、針綫などを飾った”と記されているところを見ると、女性は裁縫の上達を織女に願い、男性は書道の上達を牽牛に祈願したのかも知れません。さてこの瓜彫刻がはたしてどのような種類の瓜にされていたのかはっきりしたことは解りませんが、もともと酒の肴とともに供えられたものですから、そのまま食べて美味しい瓜であったに違いありません。『夢梁録』には「果之品」(くだもの)として“瓜には青白黄などの色があり、有名なものは金皮、沙皮、蜜甕、算筒、銀瓜”と記し、冬瓜は「菜之品」(野菜)として扱われています。このことからみても宋代の「花瓜」が冬瓜彫刻ではないことは確かですが、「金皮、沙皮、蜜甕、算筒、銀瓜」がどのような瓜であるのかはよく解っていません。

西太后に仕えた徳齢女史の随筆『御香縹緲録』には西太后が好んだ夏の瓜料理の1つとして「西瓜盅」が登場します。作り方は西瓜の果肉をすべて取り出し、この中にさいの目に切った鶏と中国ハム、新鮮な蓮の実、龍眼、胡桃、松の実、杏仁などを入れて蓋をした後、何時間も湯煎にして加熱するというもので、“その味が「清醇鮮美」であることは想像に難くない”と女史は述べています。

そこで思い出すのが、私が六本木四川飯店で修行していた頃、師匠が再現料理として作った「西瓜盅」のことです。師匠には申し訳ないのですが、西瓜の甘味と青臭さに加えて、鶏や中国ハムの味が濃厚で、日本人にはとうてい受け入れられない味でした。今思うと、そもそも生食として改良された甘味が強い日本の西瓜が蒸して美味しいはずはなく、この料理には甘みが薄く皮が厚い原種に近い西瓜が適していると重われます。実際その数年後、河南省に旅行した際、地方政府の招待所で出された「西瓜盅」は嫌な甘味もなく、やや青臭いもののその青臭さがかえって爽やかな印象を与えたことを覚えています。こちらの「西瓜盅」は鶏を1匹丸のまま西瓜に詰め、西瓜から無造作に鶏の頭が出ているという素朴な料理でしたが、このスタイルが西太后より古い「西瓜盅」と言うことができます。

中国孔府菜研究会が編んだ『中国孔府菜譜』の中に載る「一卵孵双鳳」は同治年間に考案された料理で、くりぬいた西瓜の中に二匹の若鶏を詰めて酒を少量加え、西瓜ごと蒸しあげたものです。孔子から数えて七十五代目の当主、孔祥珂はこの料理をいたく気に入り料理名を尋ねたところ、「西瓜鶏」というありきたりのものだったので、その料理の姿から「一卵孵双鳳」と自ら命名したという由来が記されています。料理の写真を見ると西瓜から鶏が2匹頭を出しているだけのもので、私が食べた河南の「西瓜盅」とさして変わらない印象を受けましたが、これが清朝の宮廷料理に伝えられると、より洗練されたものとなり、鶏は丸のままからさいの目に切られ、さまざまな材料と組み合わせて料理名も「西瓜盅」と命名されました。この「西瓜盅」はやがて各地に伝来して「冬瓜盅」に変化したとも、宮廷料理の中で「冬瓜盅」が考案されたとも言われています。

夏が近づくと瓜類が旬を迎えます。冬瓜は沖縄産が4月末から出荷され始め、次第に北上して8月まで出回ります。白瓜、はぐら瓜も4,5月に店頭に並び、金糸瓜は5,6月、はやと瓜はもう少し遅く7月頃ですが、胡瓜は一年中出回っているため季節感が感じられなくなってしまいました。旬を重んじる日本料理に対して中国料理には季節感がないように思われがちですが、どこの国でも季節の材料を使用するのは当たり前のこと、中国料理でも冬瓜は夏料理に欠かせない野菜です。

日本料理で冬瓜と言えば、緑色の鮮やかさやサッパリとした味わいを活かして調理されたものが思い出されます。すがすがしい色合いの冬瓜は清涼感を与えていかにも夏料理にふさわしい風情を演出しますが、中国料理ではあまり見た目にこだわらず、冬瓜に旨味をじっくり染み込ませて調理されます。また淡白な味の冬瓜はさまざまな料理に応用できるので、中国料理ではスープ、煮物、蒸し物、葛引き、蒸し焼きなど、料理の種類も多く、中でも「冬瓜盅」は代表的な料理といってよいでしょう。

「盅」には「さかずき」の意味があり、「冬瓜盅」とは冬瓜を器にした料理のことです。その作り方は冬瓜の上部を切り取って中のワタを除き、この中に具材とスープを注いで冬瓜ごと蒸し上げ、食べるときには内側の果肉をスプーンでえぐり取って碗に盛り、中のスープを具材ごと注ぎ入れてお客様に配ります。冬瓜は上等なスープが染みて柔らかく、さっぱりした中に深い滋味があって夏の中国料理らしい味わいを持ち、広東では夜来香(イエライシャン)の花のつぼみを散らして、いかにも南国という風情を演出します。「冬瓜盅」以外にも椰子の実を器にした広東料理の「椰子炖鶏盅」、メロンを器にした湖南料理の「香瓜八宝鶏盅」などが有名ですが、これら「盅」の字の付く料理は西太后が愛した「西瓜盅」という料理がもとになったものです。

食材の研究に関して

総料理長 山中 一男は、様々な食材の研究を長年続けて参りました。

ここでは、主にお店で使用している食材に関しての研究成果をご紹介させていただきます。

食材が持つ効能や、性質を知っていただくことで、より当店の料理をお楽しみいただくと共に、皆様の食生活にもお役立ていただければ幸いに存じます。

中国料理 古月
総料理長 山中 一男